「ほれほれ、蒼命、見よ見よ!」

そう軽やかに弾む声に、最後の書簡を棚に置いてから、声も無くその方を見遣る。そうして少し狭かった視界にパッと入ってきたのは、目一杯広げられた二つの橙色と、そこにポンと載っている、

「――…桜餅!」

見事な桜色と、鮮やかな緑色――…では、あるのだが。

「……さ、桜餅?」

彼の手袋に載っている『ソレ』と彼が高らかに言った『アレ』が、視覚と聴覚が、現物と記憶が、全くもって一致しない。

「うむ、どう見ても桜餅であろう!」

ただ、どういう事かと困惑する此方に対し、彼は頬を紅くして、興奮した様子で『ソレ』をズイズイと差し出してくる。

「え、いや……」
「ほれ、桜餅!」
「えー……」
「さ・く・ら・も・ち!」
「………」
「む、おぬしには見えぬか?」
「んー……ちょっと、難しい気がする……」
「むー……中々の自信作なのだがのう……」

首を傾げれば、彼は口をへの字に曲げる。白色の帽子の耳が垂れ下がりそうなしょんぼり具合に、そんなに真剣になる事かなぁと口を尖らせると、わしはいつだって真剣だ!とキリッと黒色の眉尻を吊り上げて。

「……まぁ、こんなものまで用意したんだったら、真剣なのかもね」

その強い視線に圧される形で目を逸らし、緑色の葉っぱ――…ではなく、葉っぱのように菱形に畳まれた緑色の布を摘まみ上げる。すると、露になった桜色のお餅――…の代わりになっていた彼の大好物を、何故か妙に寂しそうに彼が少し引いた。それを目で追うと、すっと持ち上がり、鼻の前まで来て、青色の目と、パチリ。

「……伝わったか、わしの真剣さ」

先までとは違う、本当に真剣な眼差し。思いがけない表情に、相槌が一瞬だけ喉で詰まったが、ふっと息が自然と零れて。

「……ん、伝わったよ」

そう首肯した、瞬間、彼もふっと息を吐いて、目元を柔らかく緩めて。

「……ようやく、笑ったのう」
「え?」
「さっきから、ずーっと難しい顔をしておった。ここに皺が寄っておったぞ」

ここ、と彼が伸ばした人差し指が、こそっと眉間を撫でた。何だかくすぐったくて、くすぐったいよとそのまま伝えたら、そうかそうかと彼は桃を近くの机に置く。そして此方のこめかみに両手を添え、何だろうと広がった眉間を、あろう事か両方の親指でくりくり撫で出した。

「っちょ、や、くすぐったいってば!」
「そう言われると益々やりたくなるのーう!」
「や、ちょっと、あー、やだー!!」
「おーおー面白い面白い!」
「〜〜っ太公望!!!」

名前を叫んで、ようやくピタッと彼の指が止まった。おどけたように丸くなった青色の目を睨み付けながら、変な感じになってしまった眉間を握り拳でゴシゴシ擦る。あーもう、何かまだごにょごにょする!
そうやってこっちは困っているというに、何つー顔だと彼はくくっと喉を鳴らし、そろそろ止めぬと紅くなるぞと此方の拳を取った。誰のせいなのかなんて考えてもいない、何という無邪気な笑顔。怒る気力をどんどん削がれ、仕舞いには溜息を吐き出させるこの笑顔。何年経っても、何をされても、どうにも、この表情には弱い。ぽんぽん頭を軽く叩かれたら、もう、何でも許してしまう。

「季節の変わり目は疲れやすいからのう。色々と新しい事も増えるし、わしらもさっきまで新しい作業をしておったし。曇った顔も当然だが、もっと笑った顔も浮かべぬと、辛気臭くなる一方だぞ?」

極め付けの、優しい言葉。これを自然と出来るのだから、恐ろしいものだ。彼に想いを寄せる人が絶えないのも頷ける。……ちょっと、困るけれど。
何だか私が困ってばかりだと悔しくなってきたから、少し目を細めて彼を見遣る。

「……真剣に、私を笑顔にしてくれようとしたんだ?」
「……いや、真剣に桜餅に見えると信じていただけだ」

少し間はあったが、それでもすぐに眉間に皺を作って、真剣そのものな真っ直ぐな視線。でも、真実とは違った真っ赤な嘘。本当に、憎たらしい位に、優しさの塊なんだから。ま、そういう事にしておきましょう、なんて笑って踵を返せば、信じておらぬであろう、と不満げな声が耳に触れ、そのまま後ろから抱き締められた。

「しっかし、桜餅桜餅と言ったから、桜餅が食べたくなってきてしまったではないか!」
「え、私のせい!?」
「うむ!」
「まぁ、私も食べたくなってきちゃったけど」
「よし、作ってくれ」
「今から!?」
「いやいや、今日は流石にゆっくりして、明日以降に頼む」
「作るのは決定なんだ……」
「何なら、わしも一緒に作るかのう」
「ダメ。太公望はまだ、味見係」
「むぅ、まだまだ出世できぬのう」

冗談めかしたものの、割と本気でもある。だって、彼が自分でお菓子を作れるようになったら、私の出来る事が減ってしまうから。そこは、まだまだ譲れない。
とはいえ、今のこの背中の重みと、左右にグイグイ揺られ続けるのは、流石にツラい。……あと、とてもソワソワして、とっても恥ずかしい。黒髪は頬をくすぐってくるし、幾ら隅っこの書庫とはいえ、誰か来たら大変な事になるではないか。

「……っそろそろ、桜が咲き始めたね」

しかし何故だか離して欲しいとは言えなくて、苦し紛れに話を換える。すると、

「……うむ、そうだのう、春だのう」

そんなのんびりした穏やかなそよ風が、また耳を撫でる。またソワソワして、恥ずかしくて、でもまるで春風みたいに、暖かい。

「よーし、おぬしの桜餅を持ってお花見に行くぞ!」
「花より団子ならぬ、桜より桜餅でしょ?」
「分かっておるのう、流石は蒼命」
「まぁ、毎年の事だからね」
「そうだったか?」
「そうだよ」
「……毎年か」
「……そう、毎年」

そう、また、春が巡ってきた。そんな極々当たり前の自然の摂理に、妙に心が温まる。


「……毎日お疲れ様だのう、蒼命」


そう真剣な声で言って、桜餅が楽しみだのうと笑う太公望が、背中にいる。



ああ――…春が、来た。

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