髪を梳くように吹き抜けた、穏やかな風。先月より、そして今座る地面よりは少しだけ暖かいそれに、そっと目を閉じる。
いつもならば此処でこのまま耳を澄ませれば、きっと頭上からはさわさわと涼しげな音が聞こえてくるだろう。けれど今のこの状態では、その音を拾うのは、中々難しそうだ。

「かーんぱーーい!!!」

そんな、今夜もう何度目か分からない掛け声が、すぐ目の前から湧き上がった。今夜の集まりも、お花見、なんて称されてはいるが、すぐ上で見事に咲き広がる花々を見ている人は、果たして此処に何人いるのだろうか。
まぁ、みんな楽しそうだし、私も見ていて楽しいから、此処にこうしていられて良かったけれど――…と、ひらひらと視界に入ってきた淡い色の花弁が、体育座りをする此方の膝に載って。持っていた杯を傍らに置いて摘まみ上げ、ああ、またこの季節が来たんだなぁとぼんやり思ってから、そっと地面に向けて放った。

「蒼命、ちゃんと呑んでる!?」

すると突然蝉玉が此方を振り返り、お代わりするっスか?と四不象が訊ねてきて、色々ありますよと楊ゼンが微笑んで、しかしかなり呑んでるのに全然顔色変わってないさね!と天化が驚いて、すげぇなぁ本当に蒼命は!と雷震子が笑って。
それらがドドッと矢継ぎ早に来たものだから、おおっと目を見開いてしまった。何とか言葉に詰まりながら、大丈夫大丈夫!と慌てて頭と手を横に振る。
と、

「……ん?」

人だかりの向こうから、宵風に漂ったかのような足取りで、ふらふら〜っと誰かが此方に近付いてきた。それは、

「……太公望……」

このお花見の席で、最初にチラッと見かけただけの同僚。今まで何処にいたのやら、そしてどれだけ呑んだのやら、目も口もへらへら〜っと笑っていて、灯りに照らされた頬は上の花を煮詰めたように真っ赤だ。
と、彼の青目がチラッと此方を捉えた。それは一瞬で、すぐに周りの仙道に流れていった。

「のーう楊ゼン、向こうで玉鼎が道徳と一緒に強めの酒を呑んでおったが、大丈夫かのう?」
「なっ、本当ですか!?それは早く行かないと――失礼します、蒼命!」
「あ、うん、気を付けて!」
「そういえばさっきチラッと見えた気がしたが、土行孫が竜吉公主を探しておったようだが……」
「ええっ、また!?もう、ハニーったら!!!」
「あー、あとのう、雲中子が変な生き物を放っておって大変だったぞ」
「はぁ、マジかよ!?あのバカ師匠、こんな時にーー!!!」
「酔っ払った聞仲と武成王も、派手に腕相撲をして向こうの会場を崩壊させておったしのーう」
「なーにしてるさ親父も聞太師も!!んじゃあ俺っちも行ってくるさ!!!」

と、太公望の言葉を切っ掛けに皆が皆急いで駆け出したり飛び出したり、あれよあれよという間に、この場には太公望と四不象と自分だけになってしまった。
少し寂しくなってしまったが、まだ二人もいてくれるし、今ならばざわめきを聞き取れるかもしれないなんて上を見上げたら、隣にドカッと太公望が座った。そして胡坐を掻くと、遂に、その据わった青い目が、白い霊獣に焦点を当てた。

「……ふーむ……今すぐ桃が食べたいのーう……」
「……え?」
「……御主人?」

その間延びした呟きに、四不象と共にギクリと身体を強張らせる。すると、ガバッ!と振りかざされた橙の両手が、ボフン!!と四不象の両肩に舞い降りた。

「――…てな訳で、頼むぞスープー!!!」
「えー!僕っスか!?今からっスか!!?」
「っそんな、もう夜も遅いし、明日でも――!!」
「いーやー今すぐだーー!!!」

何とかその横暴を此方が止めようとしても、腕をぶんぶん振って組んでいた脚を崩して地団太を踏んで、かなり歳を重ねた仙道とはちっとも思えない駄々っ子ぶり。ああ、この、酔っ払い暴君!四不象がかなり困っているじゃない!!

「〜〜っ分かった!!それじゃあ私が――っ!!!」

もう仕方無いなぁ!!!と身体を前に傾けて地面に手を突けば、パッとその手首を掴まれてぐいぐい引っ張られた。何なの!!?とキッとその方を睨めば、太公望はぷくーっと頬を膨らませ、むすーっと細めた青目を向けてきた。

「冷たいのーう。おぬしは酔った同僚を一人で置いていくつもりなのかー?」
「……なっ……」

その拗ねた子供のような表情と、僕が行くから後はお願いしますっス……と諦めた笑みを最後にゆっくりと遠ざかっていく四不象の背中に、呆然とする他無い。この場を離れるのは許されない展開に、あーもう!と座り直す。

「……まったく……」

酔っているとはいえ、何て我儘なのだろう。揃えた膝を折って両手を載せ、溜息を吐きつつ眉を顰める。いつも彼は密かに色々と気を遣っているから、こういう時にその反動が出てしまうのだろうか。
とはいえ、許容範囲というものがある。これはもう、きっと明日には覚えていないだろうけれど、一つお説教を――!と意気込んで隣に顔を向けた、瞬間、

「っ!」

膝上の手に、橙の手袋が重ねられて。その突然の行為に、半開きの口も、膝を掴んだ手もピシッと強張れば、此方の指を絡め取るように、彼の指が柔らかく曲がって。

「……のう、蒼命」

目を見開けば、今までずっとふにゃりと笑んでいた青目が、突然スッと綺麗に開いて。そして、流れるようにスルッと此方の耳元まで唇を近付けて、

「……今度は、二人だけで桃の花見でもせぬか?」

そう優しく囁いて少し顔を後ろに戻し、此方の目を真剣な青色で見つめてから、ふわりと微笑んで。

「……なっ……」

その吐息に混じった酒気にあてられたか、それとも吐息が届く位の距離に彼の微笑があるからか、今更ながら自分にも酔いが回ってきたようだ。だって、頭はクラクラするし、顔は熱いし、胸はドキドキしているのだから。

「良いかのう、蒼命?」

そう問い掛けるしっかりとした声は、すぐ目の前から。酔いなど感じさせない力強い上目遣いと相まって、圧が、凄い。此方の手を捕らえる彼の手を振り払う事も、顔を遠ざける事も、ましてや逃げ出す事なんて、絶対に出来なくて。
何とか口だけが震えるように動いて、こ、こんな所誰かに見られたら、からかわれちゃうよ!!?と弱々しい声をありったけ張って訴えたのだが、彼の不敵な笑みは形をピクリとも変えず。

「……ならば蒼命、誰もからかいたくなくなるような事までしてみせようか?」

なんて、飄々とした声色で淡々とのたまった。そして、息を呑んだ此方の唇を啄むように彼のそれを重ね、小さな音を此方に聞かせてから、どうやらわしは酔っているようだのう、とからからと笑う。
全く、もう、何処が酔っているんだか、この策士。お陰で、春だなぁと感じていた風が、冷たく心地良く感じられて仕方無い。目を閉じて耳を澄ませれば、何をされるか分からない。今も、彼の黒い前髪に桜の花びらが載ったので、無意識に手を伸ばしただけなのに、お代わりか?と冗談めかして、甘い仙桃酒の香り漂う口付けをまたしてきたのだから。

せっかくの頭上の桜も、皆の楽しそうな様子も見ていられない。それどころか、他の存在を全て忘れてしまっていた。


風よりも気紛れな、桜よりも綺麗に笑い、酒よりもいとも容易く此方を酔わせる、彼のせいで。


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