「……また明日のう、蒼命!」


そう笑う彼の隣には、


「それでは失礼します、蒼命さん!」


そう笑う、彼女の姿。


「……っん、じゃあまた!」

もうそろそろ見慣れた筈の光景なのに、毎回、こうして息が詰まって。胸元で膝掛けを持つ手に、ぎゅっと力が入って。浮かべた笑みが不恰好な繕い物になっていなければいいな、と締め付けられた胸の奥で切に願って。早く二人の視界から外れたくて、早く二人を視界から外したくて、別れの挨拶を言い終わると同時に踵を返して。逃げるように、今にも駆け出しそうな勢いの脚で自分の部屋に向かって。


――…そう、二人は、付き合っている。


三ヶ月ほど前から、彼女と一緒にいる太公望の姿を見かけるようになった。最初は時々だったのに、気付けば少しずつその頻度は上がっていて、今では仕事終わりには毎回、彼女が太公望を迎えにくるようになった。太公望が休みで此方が仕事の時も、一緒に連れ立って外を散歩している二人を見た。そうしていつでも、二人が浮かべているのは、繕っているなんて疑いようの無い、とても幸せそうな満面の笑みで。
小柄で、凜としていて、可愛らしくて、穏やかな雰囲気で、笑顔が素敵で。太公望に似合う人を想像したらこんな女の子かな、というイメージをそのまま現実にしたような、まさに理想の女の子。余り話した事は無いけれど、太公望が選ぶ位の人だ、きっと内面も素敵な人に違いない。

本当に、こんな自分とは比べようも無い程に、完璧な彼女――…。

「――…っ!」

急いで部屋に駆け込み、その瞬間グラリと全身から力が抜けて、倒れるように自室の壁に凭れ掛かった。良かった、誰にも会わなくて。そうほっと短く息を吐いて、気付く。無意識に唇を噛んでいた自分に。ジンジンとする唇にそっと触れてから、そのまま目の端を拭った。本当に良かった、泣きそうな姿を、誰にも見られなくて。
今度は深く長く息を吐き出して、ようやく歩き出し、抱えていた膝掛けを寝台の上に広げる。中から転がり出てきたのは、二つの小さな袋。その一つを摘まみ上げてガサガサと開ければ、ゴマ団子が二つ。それをただただ見つめて、机の上で今日の早朝から乾かしている調理器具を見遣れば、また涙が浮かんできて、また唇を噛み締めて、今度は本当に泣いてしまった。

「……っ」

それでも何とか喉を絞って、声は出さなかった。出したくなかったから。出せば、もう止まらなくなりそうで。自分の口からどんな言葉が出てくるのか、怖くて。
いっそ自分の気持ちを彼に伝えてしまおうか、とも思ったが、気まずくなるのも、気まずくならないように太公望が気を使ってくれるのを感じるのも嫌だからと、すぐに心は拒否をする。ずっと一緒に仕事をしてきて、今更、でもあるし、何よりせっかく太公望が幸せを手に入れたんだ。私は、それを壊してはいけない。まぁそれもこれも、気持ちを伝えられない意気地無しな自分を正当化する、単なる言い訳かもしれないけれど。同僚としては近くにいられる今の関係を、壊したくないから。

「――…」


……ああ、こんな風に一人で泣く夜にも、二人分のお菓子を食べる事にも、結局は何も出来ない自分にも、そろそろ慣れなくちゃいけないよね。



「――…!」

明くる日も、仕事前、執務室の入口に立つ太公望の隣には、彼女がいた。楽しそうに談笑していて、執務室に向けての足取りが鈍くなる。

「あ、蒼命さん!」
「おお、蒼命!」

と、此方に気付いたらしい、二人の弾む声が並んで投げ掛けられた。それにどうにか笑みを作って片手を挙げて、二人の隣を擦り抜けるように足早に執務室に入る。そうすれば背中の方では、それではのう、はい、今日は頑張って下さいね!なんて明るい遣り取りがあって、思わず音を立てて棚を開け閉めしてしまった。こんな風に二人に気も遣えずに仕事の用意をするところも駄目なんだよね、そう頭では分かってはいるのに。

「………」
「………」

そうして、仕事が始まって。執務室の中は、筆記具が動く音しかしなくなって。会話なんて、ほぼ無い。以前はそれなりにあったのだけれど、最近は特に喋る事も無く、仕事に関わる事しか話していない気がする。昔は太公望が休みで此方が仕事の時には、桃なりお菓子なりを持って執務室に来てくれていたのに、それも無くなった。
……もしかして、此方の気持ちに気付いた、とか。それで、此方と話すのをやめたのかもしれない。太公望ならば、彼女に迷惑や心配を掛けるような事は絶対にしないようにするから、私に気持ちを伝えられないように、彼女に変な誤解をさせないように、私との距離を作っているのかも、しれない――…。

「……!」

いけないいけない、いつの間にか筆が止まっていた。慌てて作業を再開する。仕事は仕事、私情を挟まず、きちんと取り組まなければ。
……しかし、気になる事が、一つ――…。

「………」

ちらと前を見れば、今にも閉じそうな青い双眸。下を向いているから、前からはそう見えるだけ……では、ない。瞬きの数がいつもより多いし、時々ぎゅっと目蓋を合わせて、パッと開いてを繰り返しているし。
……ん、よし。昨日は勇気が出なかったけれど、今日こそは……というか、今日は本当に辛そうだから――…。

「……太公望」
「む?」

声を掛ければ、パッと彼が顔を上げた。その今目覚めたかのようなハッとした表情にやっぱりかと腑に落ちた感覚になって、筆を置いて苦笑する。

「今日、ちょっと早く切り上げない?」
「え、何故だ?」
「いや、仕事続きで何だか最近身体が上手く動かないし、これも今日中に終わらせなくちゃいけない訳でもないからさ。駄目かな?」
「そ、そうか。わしは、別に構わぬが……」

そう困ったような彼にありがとうと笑ってから、立ち上がってお茶の準備をする。いつもの茶葉と共に急須に入れたのは、一昨日の仕事後に摘みに行った薬草。今日はお菓子を作ってこれなかったが、仕方無い。目の腫れを治すのに時間が掛かってしまったから。
最近はしなくなったが昔はよくしていた事だからか身体が覚えているらしく、ドキドキしつつも淡々とお茶を淹れて、太公望に茶器を差し出せた。そうすれば、かたじけないのう、と笑顔が返ってきて、曖昧に返事をしながら椅子に座り直す。危ない、久し振りに真正面からその笑顔を見たものだから、お盆ごと茶器を床に落とすところだった。

「……うむ、いつもながら美味しいのう!……ただ」
「ん?」
「少し、いつもと違う味がする気が……」
「あ、ああ、疲れや眠気が取れる薬草を入れてみたんだ。一昨日摘んでね」

味を覚えてくれていた事に少し驚きつつ、口に合わない訳ではなさそうで良かった、と安堵しながら自分も飲もうと茶器を口先まで持ち上げたら、此方をじっと見つめる青い目と、パチリ、と目が合った。

「……何?」
「……最近身体が上手く動かなかったというのに、わざわざ摘みに行ったのか?」

ドキリ、とした。思わずお茶を噴き出しかけたので、慌てて茶器を机に置いて笑う。

「あ――あ、まぁ、一昨日はそれなりに元気だったから!いつか使うかなって思って用意したんだけれど、まさかこんな早く使う事になるなんてね!」
「……ほぉ……」

太公望はそう納得したような声を出したが、その表情は何かを考え込んでいるようで、此方の取り繕いなんか見透かしてしまっているようで。
ああ、安心して余計な事を言ってしまった。彼は、人一倍鋭いというのに。彼が最近眠そうだからと摘みにいったのが、バレてしまっただろうか。重いと、思われただろうか。ああ、もう、不安でいっぱいだよ、最悪だよ、私――…!!!

「……のう、蒼命」
「っえ!な、何?」

と、現実に意識を引き戻した呼び掛けの方をハッと見れば、あ、いや、あのだな……ともごもご言いつつ青目を横に泳がせてから、此方に焦点を戻した太公望が、尖った唇でぼそっと呟く。

「……この後、少し散歩でもせぬか?」
「……え……」

突然の、そして本当に久し振りの言葉に、思わず返答に詰まってしまった。そんな動揺を露にしてしまった此方に、太公望は気まずそうに苦笑いを浮かべた。

「あ、いや、何か用事でもあったのか?」
「いや、私は無いけれど……え、いいの?」
「?何がだ?」
「あ、いや……」

だって、彼女が……と言いかけて、やめる。もしかしたら、彼女に関する話かもしれない。近況とか、相談とか、何かしらの、決意とか――…。

「……ん、私なら、大丈夫だよ」

そう笑みを見せれば、そ、そうか、と太公望が頷きながらお茶を飲んだ。それを見ながらそっと息を吐いて、お茶を口に少し含み、ゴクンと呑み込んだ。

浮かべた笑みも、伝えた言葉も、全て嘘。彼女の事を話されて、私は大丈夫でいられるのだろうか。


……大丈夫でいられなかったら、今度こそ、この関係も、終わるのかもしれないね。


- 61 -

[*前へ] [#次へ]

戻る
リゼ