七月も終わろうとしていた頃、見つけてしまった。

「……ん?」

執務室の隅っこにある棚の下から端っこを出している、薄桃色の紙。

箒を止めて眉を顰めながら、その元へ向かう。墨や筆の予備を仕舞ってあるこの棚を最近使っていなかったからか、あと少しで終わりそうな月末恒例のこの掃除をするまで、その存在にずっと気が付かなかった。
持っていた箒を棚に立て掛け、しゃがみ込んで紙を摘まむ。そろそろと引っ張り出せば、それは意外に縦長で、此処に落ちて日が浅いのか汚れも埃も付いておらず、何より見覚えのある形と大きさで。そう、今月初めに仙人界の皆が手にしていた、かくいう自分も手にしたし、墨で文字をしたためてから食堂の笹に吊るした物だ。
ただ、今目の前にあるそれには、何の文字も書かれていない。あ、同僚が此処に持ってきたものの書く前に落として、そのまま無くしたと思ったのかな……なんて考えながら、何気無くぺらっと裏返した。そして、其処に書かれたたった一文を凝視したまま、固まってしまった。


『太公望と ずっと恋人同士でいられますよーに!』


「………」

……何だか、見つけてはいけない物を、見つけてしまった気がする。まさか、願い事が書かれているなんて。そしてそれが、こんなにも衝撃的な内容だなんて……。
しばらくそれを見つめてから、金縛りが解けたようにハッとなって慌ただしく辺りを見回す。名前を書かれている同僚は勿論、自分以外は誰も此処にはいないと確認してようやく、止めていた息を深々と吐き出せた。ただすぐまた息を吸って、短い間隔で吐いて吸ってを繰り返す。だって、かなり動揺してしまった。今も、心臓が煩くて仕方無い。
しかし、同僚をこの名で呼ぶ女子は、蝉玉と、竜吉公主と、この前親しげに彼に話し掛けていた道士と、他に数人……しかし、蝉玉には土行孫がいるし、公主はこんな風な文を書きそうにないし……となるとあの道士かなぁ……それとも、外では別の呼び方で、二人になると呼び捨てになるとか――…。

「――…!」

と、誰が書いたのかを真剣に考え込んでいた思考に、唐突にふっと隙間が出来た。そうしてようやく、この文章の意味を認識した。
本当は、分かりたくなかった。確かに自分の中にはいつも、漠然とした不安としては存在していたが、こんな形で真正面から突き付けられるとは思ってもみなかった。
短冊に書かれた、自分がずっと目を背けてきた真実。指先に挟まれる紙が、内側に反る。指にも、結ばれた唇にも、ぎゅっと力が籠る。

「――…」


……太公望……やっぱり、恋人がいるんだなぁ――…。


「蒼命?」
「うぁ!!?」

突然、背中側から名前を呼ばれ、ビックリして変な声を出してしまった。考え事に没頭していて、後ろの気配に全く気付かなかったらしい。反射的に腕を抱え込み、問題の紙を隠してからパッと顔を上げれば、青目を丸くした同僚が立っていた。

「置いてあった書簡、書庫に返してきたぞ」
「あ、ありがとう、太公望!」

ニコッと笑えば、一瞬訝しげな顔になったものの、それ以上を問う事も無く太公望は背中を向けてくれた。良かった、この短冊には気付いていないみたいだ。
けれど、この短冊は、何故此処にあるのだろう。短冊は、食堂に飾られている笹の近くに用意されていたし、皆も其処で願い事を書いていたのに……もしかしたら、太公望が彼女を此処に連れてきて、願い事を書いた短冊を、交換し合ったとか……そんな突拍子も無い予測に、けれど手にはかなりの力が入ってしまって、慌てて力を抜く。ちらと見れば、短冊に小さな皺が出来てしまった。

「………」

しかし……これを、どうすれば良いのだろうか。皆の願い事を吊るした笹は、今月末まで食堂に置いておくと楊ゼンが言っていた。ならば、こっそり掛けておくべきか、それとも持ち主を探して返すべきか……迷いながら足を伸ばして立ち上がり、向こうで机を拭いている太公望を見る。
太公望ならば、これを書いた人を知っているかもしれない――いや、絶対に知っている。だって、その人は、つまり、彼の――…。

「――…」

……見なかった事にして、捨ててしまおうか。

そんな考えが、頭を過った。だってこの短冊は、分かりにくい所とはいえ、探せば見つかる場所にあった。つまり、太公望はこれを熱心に探さなかったという事で、彼にとってのこれはそれ程大切な物ではないという事で、だから、何も言わずに、最初から無かった事にすれば……。

「よし、あとはゴミを捨てに行くだけだのう」

そう、その中に、紛れさせてしまえば――…。

「……っあの、太公望」

呼び声は小さくなってしまったが、それを太公望は拾ってくれて、すぐに此方を振り返った。

「どうした、蒼命?」

そんな疑問の表情は、此方の顔を覗き込むなり、まさか具合でも悪いか?と不安そうに曇って。ああ、いつだって、太公望は優しい。だから私は、彼の事を好きになった。そうしてあの願い事を、今年の短冊に書いて吊るした。


……そうだ、私は、あの願い事を、絶対に叶えたいから――…。


「……これ」

この短冊を、誰かの願い事を無かった事にするなんて、自分には無理だった。誰のものかは分からないが、彼を好きでいる気持ちは、分かるから。それを無かった事にするなんて、私には出来ない。だから短冊を目の高さまで上げて、隠す事無くその内容を太公望に見せた。

「む?――…!」

驚きに見開かれたその目に、ズキッと胸が痛む。やはり、心当たりがあるみたいだ。これから、太公望は何を言うのだろうか……何でもないと誤魔化されるか、それとも真実を告げられるか……どちらになっても、自分の真の願いは叶わない。
けれど私は、この固い口端を緩めて、持ち上げなければ。そうして、祝福の気持ちを込めて笑わないと――…。

が、太公望の目は段々と普通の大きさに戻っていき、最後にはむーっと細まって。

「……何だ、おぬしの字ではないのか」
「え!?そ、それは勿論、私はこれを書いてないよ!!!」

ぼそりと漏らされたのは、誤魔化しでも告白でもない、不可思議な意見。それに対して此方は頭を振り短冊を振り、身の潔白を訴える。
そもそも私達は単なる同僚で、恋人同士ではなく、勝手に此方が彼の事を想っているだけで。まぁ、こんな風に堂々と書ける仲になれたならば、それは願ってもない事だけれど……。

「で、これは何なのだ?」
「え、あ、あの、棚の下に、落ちていて……」

何故か苛立ち気味な声に少し強張ってしまったが、返答しながら件の棚を視線で示すと、それを追った青目を細めたまま、太公望がハアッと溜息を吐く。更には、一体誰かのう、こんな阿呆な事を書いたのは……とぶちぶち文句まで言い始めた。
何というか、珍しい。太公望が、こんなにも不機嫌さを丸出しにしているのは。時々不満を言う事はあっても、人に対してというより仕事に対してばかりだし、こんな長々と言う事は無いのに。それに、恋人がこんな事を書いてくれたら、苦笑したり、嬉しがったり、照れたり、そんな明るめな反応をするものかなと思っていたのに――…?

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