……赤いなぁ。


そう心の中でポツリと呟いたのは、頭上でざわめく葉に対してではない。

「………」

目の前の、青い空に向けられた鼻に対してである。

ちょっと視点を動かすと、黒い前髪の隙間に見える目蓋は青い瞳を隠していて、鼻先にも負けず劣らずな赤い唇が薄ら開いている。目を閉じて耳を澄ませば、スー……スー……と心地良い寝息が聞こえてきた。
本当に気持ち良さそうではあるが、しかし気になるのは、やはりその赤い鼻先。


……寒いのかなぁ。


目を開けて顔を上げれば、青い空を染め上げるかのように広がる、赤い葉が沢山。

本当に寒くなってきた。暑さに項垂れていた少し前が嘘のように、いつの間にか寒さに身体を震わせていた。目の前でのんびり昼寝している同僚と共にひんやりした桃を食べていたのも、遠い昔の話みたいだ。
まぁ、彼は年中無休で桃を美味しそうに食べているし、今も、彼の横にしゃがむ此方の足元には、桃の種が沢山散乱しているけれど。

「………」

しかしまぁ、特に寒さに弱い彼には大変な季節になってきた。今年も例年通り、寒い寒いと口を尖らせて、仕事をする気にはなれぬのうなんて、グータラだらける気なのかもしれない。
だからこそ、今こうして室内ではなく屋外で横になっているのが不思議なのだが、それを考えている場合でも、よく眠っているなぁと見守っている場合でもないかもしれない。風邪を引いてしまったら、それは大変な事になるから。


……そろそろ起こそうかなぁ。


ほっと一つ息を吐いて膝頭から手を離し、橙色のお腹の上で重ねられている同じ色の手袋に向かって伸ばす。

「――…!」

と、目の前を何かがすーっと横切った。彼を起こすのを阻止するようなタイミングだったので思わず身を引くと、何処かへ飛んでいってしまったかと思ったら、また此方に戻ってきて。
そしてそのまま、彼の赤い鼻先に、その赤い来訪者が留まった。

「………」

枝のように細い身体と、糸のように細い足。その大きい目には、グッスリ眠っている彼が沢山映っているのだろうか。
しかし、彼に起きる気配は無い。鼻先がくすぐったくないのだろうかと目を見開いたが、穏やかな寝息に変化は無い。鼻先にいるこの子も神経質な方なのに、今は薄い羽の細かい模様がじっくり観察できる位、見事に留まっている。

「………」

お陰で此方の方は、彼を起こそうという気持ちが何処かへ飛んでいってしまった。彼を起こせば、彼だけでなくこの子の休息も邪魔してしまうような気がして、何だか罪悪感が二倍になってしまったような。だから、取り敢えず中途半端な位置で止まっていた手を下げて、また膝頭に戻す。
そしてしばらくは、彼の寝顔と赤の来訪者を静かに見比べていたのだが、

「……!」

不意に羽を細かく震わせてすーっと飛び立ったかと思ったら、それに代わるように、新たな赤い来訪者が彼の前髪に綺麗に載った。赤子の掌にも似た形の、赤くて小さくて、薄いそれ。
頭上の群れから離れ、ひらひらと舞い降りてきたそれは、さっきの子に比べたら安全な所に止まった筈なのに、驚く事に、ずっと閉じられていた彼の青い目をそっと開かせた。

「……おー……蒼命……」

その開きたての目と同じく、ぼんやりした色の声。それでもはっきりと聞こえた、私の名前。

「……ん、おはよう、太公望」

それにつられてか、目覚めた時の挨拶に彼の名前を添えていた。呼ばれた彼はふっと笑うと、自分の黒い前髪に載っている赤いモミジに気付き、ゆっくりと摘まみ上げる。そしてそれをしばし眺めてから、此方に青い目を遣った。

「……もう終わったのか?」
「ん、仕事は早いからね、私は」
「む、誰かと比べるような物言いだのう」
「さぁ、どうでしょう?」
「ったく、意地悪だのう」

むっと目を細めてから、よっと声を出して太公望が起き上がる。少し土の付いたその背中を軽く手で払ったら、渋かった顔が柔らかくなった。

「かたじけない」
「いえいえ」
「それにしても、随分長く、其処にいてくれたみたいだのう」
「え?」

何で?と目を丸くすれば、何でっておぬし、と橙の指先に軽く鼻先を叩かれて。

「此処が、赤いぞ」

更には、どっちがより赤いかのう、なんて摘まんだモミジを此方の鼻の隣に持ってきて、ひらひらさせながらニヤリとしてきた。だから、そう言う太公望の鼻も赤いんだからね?と眉根を寄せれば、ならばお揃いか、と楽しそうに笑い返されてしまった。その言葉に何だか落ち着かなくなって、咄嗟に視線を逸らしたら、向こうに生えるススキ上のそれに目が留まる。

「あ……あの子かな?」
「何がだ?」
「さっきまで、太公望の鼻先に留まっていたんだよ」

そんな此方の話に合わせるように、ススキから離れて目の前をすーっと飛んでいく、赤トンボ。それは気付かなかったのう……と眉を顰めて自分の鼻先をさする太公望にくすっと笑ったら、そんな此方を見て彼も笑みを見せる。

「そんな季節になったのだのう」
「ん、そうだね。時間が経つのはあっという間だね」
「確かにのう。しかしまた、こう気温が下がるのもあっという間なのは嫌だのう」

そう溜息を吐いてから寒い寒いと口を尖らせる彼を見ていれば、ああ、やっぱり例年通りだと妙な安心感を抱く一方で、そういえばと不思議に思っていた事を訊いてみる。

「……寒いのに、何で外に出ていたの?」

そうすれば、しかし太公望はちょっと目を大きくしただけで、何も答えない。だから、質問を続ける。

「しかも、こんな所に」

そう、此処は桃園ではない。わざわざかなりの量の桃を運んできて、わざわざこんな寒い所にずっといたとは。同じ屋外ならば桃園にいた方が効率的だし、頭の良い彼の事だからそうしているだろう。
と、自分もそう思ったから、仕事終わりに桃園へ直行した。しかしいなかったので探し回り、やっと此処に辿り着いたのだ。住居とは結構離れた、彼を惹き付けそうな物が特に見当たらない、少し開けた此処に。
だからここぞとばかりに訊ねてみたのだが、

「……さぁ、どうしてかのう?」

結局そんな答えになっていない答えと意味深な笑みしか貰えず、釈然としない気持ちのまま、立ち上がる太公望を黙って見上げる事しか出来なかった。

「ほれ、帰るぞ」

何も無かったように、太公望は橙色の手を差し出してくる。だから一言二言小言を言おうかとも思ったのだが、明るい笑顔を前にしたら何の言葉も纏まらず、渋々その手を取って立ち上がった。
そうしてモミジで赤く彩られた帰路を、二人でゆっくり歩み出す。

「で、今日はちゃんと休みながらやったのか?」
「……それは、まぁ」
「今の間は、休まなかったからわしに怒られたいという間か?」
「いや、そうじゃないそうじゃない!今日の仕事はいつもより楽だったし――!!」
「だから休まなくて良いという事ではなかろうが!やはり、おぬし一人に仕事をさせるのは不安でしかないのう……」
「その言葉、そっくりそのままお返ししますけど」
「へ?」
「私にとっては、太公望一人に仕事させる事こそ不安でしかないです」
「何故だ?」
「すぐに逃げるから」
「……おお、見よ、向こうにもモミジが!」
「あ、誤魔化した?」
「綺麗であろう?」
「……まぁ、綺麗だけど」


……でも、こんなにモミジが生えている所があるなんて、知らなかったなぁ。


上にも下にも広がる赤に、そんな感嘆がそのまま素直に口からもポロリと出てきて。

「――…?」

と、ふと何かを感じたので隣を見てみれば、綺麗に細まる青が此方に向けられていて、思わずドキッとしてしまった。反射的に、足元で乾いた音を鳴らす赤いモミジに視線を落とす。

「………」
「………」

そのまま、お互いに無言で、ただ歩く。ただそれでも、どちらかが先に行く事も、どちらかが後れを取る事も無く、ただただ並んで歩く。
そうしていつの間にか、どちらからともなくそっと手を繋いで、自然と足は速度を落として、ゆっくりゆっくり歩いていく。


……何だか、幸せだなぁ。


そんな心の呟きは、先よりも更に冷えてきた空気に零れる事は無かった。けれどそれを肯定するように、手は彼の手を少しだけ強く握って。そうすれば、同じ位の力で握り返されて、また少し、歩く速さが遅くなって。


……また一緒に来たいなぁ、太公望。


それも、心の中だけでポツリと呟いたのだけれど、


「……また一緒に来たいのう、蒼命」


そんな呟きが外から聞こえてきて。顔を上げれば、真っ直ぐに前を見る青い目の下、その頬は、暮れなずむ空のせいか、ほんのり。



……赤いなぁ。




→あとがき
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