何と無く、仕事終わりに一人で此処へ来ていた。何をしたい訳でもなく、本当に何と無く。

少し前までは寒い位だった夜風も、いつの間にかもう暖かくて湿ったものになっている。思わず膝を抱えていた手を太腿の横に突き、脇を少し広げてほっと溜息を吐く。この調子だと、これから先もかなり暑くなりそうだ。
曲げていた脚を伸ばしていると、下から何やら楽しそうな声が聞こえてきた。耳を傾ければ、それは今日に相応しい会話。

「――へー、そうだったんだ!」
「え、貴女は何書いたの?」
「あ、私はね――!」

いけない、中々に個人的な内容だ。慌てて感覚を耳から目に集中させて上を仰ぐ。雲はそれなりにあるが、其処から零れ出ているかの如く数え切れない光の粒もちゃんと見えた。場所が場所だからか、何だかとても近く感じる。
ああ、今にも此方に降り注いできそう。本当に綺麗。何と無くでも此処へ来て良かった。

「――…蒼命」

と、瞬く星々に吸い込まれていた意識を柔らかい声が呼んだ。その方に目を向ければ、星空に浮かぶように佇む同僚の姿。

「……太公望」

名前を呼び返すと、こんな所におったのかと口を尖らせながら太公望はカタカタと瓦の上を歩いてくる。その手元ではカラカラと乾いた音が鳴っていて、目を凝らせば瓢箪が二つ揺れていた。

「あれ、四不象は?」

飛べない彼は、どうやって此処まで来たのだろう?そんな疑問を込めて訊ねれば、よっこらせと隣に座った太公望がニッと白い歯を見せる。

「わしの知恵をもってすれば、飛ぶ事無くこの屋根まで来る事など朝飯前だ」

そう此方の質問の意図を見透かした彼ならば、確かに此処まで来られそう。その異様な説得力に目を丸くした此方から青い目を逸らし、後ろ気味に手を突いた太公望は背を反らして夜空を見上げる。

「おお、今宵はまた随分と綺麗だのう!」
「ね、星が沢山で綺麗だよね」
「うむ、今にも此方に降り注いできそうだ」

そうして手を天に伸ばしてさっき私が思った事を言うものだから、思わず吹き出してしまった。すると太公望が何か変な事言ったかのうと怪訝な顔になってしまったので、首を横に振っておいた。流石に、同じ事を考えていたんだよなんて、恥ずかしくて言えなかったが。

「ところで蒼命、短冊は書いたのか?」
「まだ」
「まだって、もう今日も終わるぞ?」
「んー、そうは言ってもね……」

いつの間にか此処では、短冊に願い事を書いて食堂の大きな笹に掛けるのが慣習になっていた。笹はいつも何処からか武吉君が運んでくる。太い支えが幾つも必要なほど立派な笹を「散歩の途中で落ちているのを偶然見つけたんです!」と毎年拾ってくる武吉君は、かなりの強運の持ち主だと思う。

「……太公望は書いたの?」

そんな彼がお師匠様と呼ぶ人に訊ね返すと、勿論だ!と大きな頷きと共にすぐに快活な返事が来て。その即答ブリに、書いた内容を気にする前に無意識に嘆息が零れた。

「……そう……太公望には、願い事があるんだ……」
「む、おぬしには無いのか?」
「んー……」

願い事が全く無いという訳では、それはないけれど……首を傾げつつ答えあぐねれば、それ以上を問う事はせず、名案を思い付いたと言わんばかりに太公望が人差し指をぴっと立てる。

「何なら、おぬしの願い事をわしの分に回すか?」
「えー……それは、何だか卑怯じゃない?」
「別に、一人に対し願い事は必ず一つという規則は無かろう」
「いや、気持ち的なものというか……」

今度は逆側に頭を傾ければ、おぬしは真面目だのうと太公望が笑って瓢箪を差し出してきた。

「ほれ、そんなおぬしはこれでも呑んで今日くらい羽目を外せ」
「いや、此処で羽目を外したら、相当危険な事になると思うんだけど」
「落ちそうな時はわしが止めるし、部屋へはわしが運ぶから案ずるでない」

どうやってこの屋根まで上ってきたのか分からない人に、そう自信満々で言われても……という冷静な意見が頭を過ぎったが、それは一瞬。太公望がそう言うのだから、大丈夫かも。中々の高所である事も気にせず軽くそう思う自分にまた笑いが零れて、そうすればまた太公望が訝しげに眉を顰めて。その表情も訳も無く面白くて、笑みを消せないまま太公望の手から瓢箪を受け取る。思ったより重くて、これは長く此処にいられそうだ。

「ありがとう。で、中は何?」
「それは呑めば分かるのう」

彼も自分の分の瓢箪を手にして、意味ありげに振る。その様子に、今までの経験が心の中に小さな警戒心を芽生えさせた。

「……変なもの入れてないよね?」
「む、失礼な。雲中子ではあるまいし」
「それは雲中子に失礼。それに、太公望にも前科が無い訳ではないでしょう?」
「ま、そういう細かい事は気にせずに。ほれほれ、乾杯乾杯」
「細かい事って……」

あのねぇと言い返す前に太公望の流れに呑まれてしまい、瓢箪をコツンとぶつけ合ったらもう苦笑いで蓋を摘まむ。キュポン、と良い音がして瓢箪が開いたら、濃厚な芳香に鼻をくすぐられた。記憶を呼ぶまでもなく反射的にその丸い姿を浮かばせる、彼の大好きな果実の香り。

「今日はシンプルに仙桃酒なんだね」
「うむ、それならば強く酔わぬから安心であろう」

あ、一応配慮はしてくれたんだ。そんな些細な事も、何故か今は妙にくすぐったい。また変に笑いを零す前に、隣の彼に倣って瓢箪に口を付ける。
少し傾けただけで口にひんやりとした液体が注がれ、けれどそれが口内を撫でて喉奥に落ちれば身体はほんのりと熱を持つ。とろっとした感触とふわりと広がる甘さと相まって、心地良い。風が吹いても、その熱気も湿り気も全く気にならない。
ふぅっと瓢箪を口から離し、再び空を見る。視界の端から端まで、無数の星。数えていたらきっと陽が昇ってしまって、最後まで数えられないだろう。そうしたらきっと、今年の短冊には何も書けないままになるんだろうなぁ――…。

「……そういえば、今日する願い事って、技能の上達に関する願い事が良いらしいよ」

ふとそんな事を沈黙に落とせば、同じく静かに星を眺めていた隣の顔がすぐ此方に向いた。

「そうなのか?例えば?」
「そうだね……裁縫が上手くなりますようにとか、あと字が上手に書けますように、みたいなのが元々今日していた願い事だったみたいだけど」
「ほぉ……では昔わしが短冊に書いた、休みが増えるというのはダメなのか?」

そう真っ直ぐな青目でまじまじと見つめてくるものだから、年齢相応でないし、何より同僚の私に言う内容でもないねと咎める事も出来なかった。こういう綺麗な目とあどけない顔を有効活用する所、意識的か無意識かはともかく結構ズルいと思う。

「……ま、まぁ、ダメではないだろうけど、七夕の願い事には向いてないんじゃない?」
「そうか……だから叶わなかったのか……」

そう腕を固く組み、何を其処までと突っ込みたくなる真剣な顔で低く唸るものだから、堪えなきゃと思う間も無くまた笑ってしまった。この明らかにズレた真面目さ、いつになっても怒れない。

「……で、結局今年は何にしたの?」

口角と共に気も緩んだか、話の流れついでについそんな事を訊ねてしまった。人の願い事に勝手に耳を傾けるのも、わざわざ訊き出そうとするのも良くない事だと分かってはいるが、どうしても気になってしまったから。だって、誰でもない、太公望の願い事――…。
ただ、やっぱり訊くべきではなかったかもと後悔もしてしまい、それにきゅっと強く結んだ口元を太公望に目敏く見つかってしまった。一瞬心配そうになった彼の顔にぎくりとしたが、しかし何故か彼は嬉しそうに片方の口端を吊り上げて。

「……気になるか、わしの願い事?」

その挑発的な微笑に、それは気になるよ!と真正面から叫びかかろうとも思ったが、

「……言いたくないなら、別に良いけど」

何だかそれも癪だから、むっと目を細めるだけにしておいた。が、その反応でも満足したらしく、くくっと楽しそうに喉を鳴らしてから、太公望はその微笑みをゆっくりと此方に近付けてきて。彼の息遣いをまともに受けてしまいそうな距離に、思わず息が止まった。

「……な、に?」
「……うむ……わしはだな、今年の短冊には、のう……」

誰も周りにいないのにわざとらしく声を潜め、一文字一文字を刻むように放って言葉に紡ぎ出す。ああ、もう、やたら勿体振ってくるのが憎い。こんな意地悪な仕草にドキドキしている自分も憎らしい。

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