彼女に避けられている。

彼を避けている。


何故なのか。

私が悪い。


いつまでなのか。

私が私を許すまで。



何故、何も言ってくれぬのか――…。



言えない、言えない、絶対に、言えない――…。




蒼命に避けられている。


それは、いつからだろうか。振り返れば、少なくともここ数日内には、既にそれは始まっていた。


「………」

紅い陽光が差し込む静かな書庫で無言のまま書簡を戻していれば、心の底にずっと抱き続けてきた曖昧な疑念が、いよいよ明瞭な形となった。

「………」

静かな……ふと手を止めて周りを見回せば、書簡や書物が番号順に綺麗に並べられた棚、中央に小さな木の机、少し煤けた漆喰の壁、日暮れ間近である事を伝える小さな窓――誰もいない、最早静か過ぎる書庫。そう、今も、一人。

先までは、一人ではなかった。確かに、今日も朝から三人で仕事をしていた。……いや、『三人』というのが、そもそもおかしい。今の仕事を始めた当初から、いつもは蒼命と自分だけしかいなかった。なのにいつから、第三者が同じ執務室にいる様になったのか。
ある時は四不象、ある時は武吉、普賢だった時もあれば、他の仕事で手一杯の筈の楊ゼンが来た時もあった。別に期限がある仕事でもなく、日々の済ます量は一応決めてあるものの、二人でやれば一日も使わずに終わる。

なのに最近、自分達以外の誰かが、絶対に一人はいる。そして蒼命は、その人にしか喋りかけない。此方に用があっても、その人越しに伝えてくる様な。

それが続けば少し気になるのは当たり前で、遂に今日の仕事終わり、さっさと執務室を後にした蒼命の姿が見えなくなった所で、今日の助っ人であった武吉にそれとなく訊いてみた。何故、最近来るのかと。そうすれば、武吉はニコッと笑って答えた。

『ああ――…蒼命さんに頼まれたので!』

そうして気持ち良い挨拶と共に武吉は執務室を出ていったが、自分はしばらく動けなかった。

「………」

蒼命の妙な行動は、それだけではない。此方には何も言わずに突然休日を取ってみたり、反対に休日が被っていた筈なのに、自分だけ仕事を入れてみたり……今も、彼女が片付け忘れた書簡を戻しにきている。仕事は常にきっちりこなしてきた彼女には、非常に珍しい事だ。
何だか変に胸騒ぎがして、何度か彼女の部屋を訪ねても、応答を貰えない事がほとんどだった。一度、最近は早めに寝ていると蝉玉に話しているのを小耳に挟んだが、それもまるで蝉玉ではなく此方に聞かせる為の様にわざとらしかった。

そういえば、蝉玉といる事も多くなった気がする。あの二人でいられたら、女同士の話があるという風に感じて、話し掛けづらくなる。実際どうにか声を掛けようとして、今はごめんねと言いたげに苦笑され、目を逸らされた事もある。

朝の『おはよう』と、時々の短い遣り取りと、仕事終わりの『お疲れ様』と、別れの『じゃあ』。
それらだけが、蒼命から此方に渡される言葉達。それ以上は、何も無い。

「――…」

――…そう、自分と二人だけにならない様に、彼女が意図的に動いている。

「………」

書簡を奥まで押し込めながら、思い出す。前にも似たような事があった。それは、此方への贈り物を隠す時。
その時は、此方にバレない様にと明らかに挙動不審で、勿論不安にもなったが、しかし隠し事が下手だなぁと笑みが零れてしまう程のたどたどしさだった。そう、そんな余裕は何処かにあった。彼女には、いつでも明るさがあった。
しかし、今回は違う。目を伏せ、力の無い笑みを浮かべ、表情の端々に陰りを見せる。確実に、何か思い悩んでいる。そしてそれを、誰にも覚らせまいとしている。恋人である自分も、例外ではなく。

「………」

そして何より、話す事は愚か、会う事すら此処までに拒まれた事は、今までに一度も無かった。

「………」

書簡から、そっと手を離す。役目を終えた腕をダランと脇にぶら下げれば、手に触れるものは、もう何も無い。
彼女と二人になれない事が、そうして喋れない事が、触れられない事が、此処まできついとは正直思ってもみなかった。想いが通じ合ってからは当たり前だった事が突然出来なくなって、初めて、その特別さに気付くとは――…。

「――…」

何とも無く身体が揺らぎ、棚の隣の壁に背中で凭れ掛かる。下げた腕は再び持ち上がり、手はグシャリと前髪を潰した。視線はぼんやりと床に落ち、しかし脳裏には床ではないものが、記憶にいる者が鮮やかに映し出される。


『――…太公望!』


そう名を呼ばれた事も、楽しそうに手を取られた事も、嬉しそうな笑顔を向けられた事も、もう遠い昔の様で――…。

「――…くそっ!」

額の前でギュッと握り締めた手を振り上げ、勢いのままに棚に殴り付ける。けたたましい音を立てて書簡が幾つか床に落ちたが、それが収まれば、また書庫は沈黙した。

「………」

拳も、歯を立てられた唇も、けれど痛みを発しない。もしかしたら痛みを訴えているかもしれないが、しかしそれは意識の中に無かった。

辛い事があるならば、自分を頼って欲しいのに。何でも良いから、自分に言って欲しいのに。
そんなに自分は頼りないのか。何かを言うに値する男ではないのか。

「………」

それとも、自分には言えない事なのだろうか。他の誰かには、言っているのであろうか
他の誰かには言える事。この自分には、言ってくれない事――…。

「――…っ」


……そんなの……わしは、わしは――…!



「……蒼命――…!」

- 85 -

[*前へ] [#次へ]

戻る
リゼ