気付いた瞬間、

「――…あ!」

パッと明るい笑顔になり、

「……た――」

ニコッと大きく口を開いて、

「い――」

と、其処まで声に出しておいて、


「――…いつ!」



――…だから何故にそっちなのだぁ!!!




「………」

……寒い。

じっとりと纏わり付く様な夏の暑さは何処へやら、今感じているのは、まさに肌に突き刺さってくる様な冬の寒さ。手袋をしているのに指先が冷たく、直に冷気に触れている耳は、最早寒いを通り越して痛い。手を擦り合わせ、自然と腕も身体に密着して、この冬の空気に当たる表面積を減らそうとしている。
……但し、書類を抱えて廊下を一人歩いている中で感じているこの寒さは、そんな気温の下降によるものだけではないと思う。

「……!」

――…来た。前から、この寒さの元凶が。

「――…あ、太公望!」

気付いた瞬間パッと明るい笑顔になり、ニコッと大きく口を開いて此方の名前を呼んだのは、向こうから小走りでやってきた蒼命。……しかし、今回はちゃんとわしの名前になったか、と変な安心感を覚えてしまった。

「お疲れ様!あ、これから書庫?」
「うむ」
「あ、そう。頑張って!じゃあね!」
「待て、おぬしは何処へ行くのだ?」
「え!?あ、まぁ、ちょっと!」

足早に過ぎようとした彼女に他愛無い質問を投げ掛けただけなのに、何故其処まで焦りを見せるのか。そして何故にわざわざ行き先を曖昧にするのか。まぁ、行き先の見当はついているのだが。今日も今日とてお手製の茶菓子の入った籠を持って……どうせ、あやつの所であろう。

「……太乙、の所か?」
「……へ?」

努めて無表情で、その名は意図的にしっかり強調すれば、ギクリ、と音が聞こえたかと錯覚させる様な、彼女の引き攣った口元。本人は至って平静を装っている様だが、その少し青くなった顔には『はい、その通りです』とデカデカと書いてある。相変わらず、思っている事がハッキリと透ける顔だのう。
やれやれと眉尻を下げると、しかし彼女はわたわたと首を振り、何とも分かりやすい悪あがきを見せている。

「……太乙の所でいつも何をしておるのだ?」
「っや、別に、ちょっと、ほら、ね!」

何が別にでちょっとなのか全く分からないのだが、蒼命はじゃあお仕事頑張ってねと言いながら慌ただしく行ってしまった。……此方の返答も聞かずに、ったく……。

「………」

そう、最近の蒼命は、何故だか知らないが、太乙の所に入り浸っている。今日の様な休日はいつも。仕事のある日はといえば、仕事が完了するとすぐに太乙の元へ急ぎ足で行ってしまう。しかも、ちゃんと手土産を持って。
お陰で仕事終わりのお茶の時間が無くなったし、彼女が休みの日に時折あった差し入れもご無沙汰、休日が被る時も一緒にいる事は無くなった。今日は用事があるのと此方の前で申し訳無さそうに手を合わせた彼女が、打って変わって意気揚々と太乙のラボに入っていく姿を何度見た事か。

「………」

実際、浮気というものは気にしていない。本来ならばそれを一番に考えるべきかもしれないが、彼女がそういう事の出来る人間でないと自分は断言できる。中途半端な感情も持つ事も、中途半端な関係でよしとする事も無い性格だから、もしも移り気を持ったならば、必ずどちらかにケリをつけようとする筈。

「………」

なのに、こうして書類に見事な皺を作る握力に、ギリギリと鳴り出しそうな歯の噛み合わせ、足は落ち着き無く床を叩いている。こうも端々に出る位にイライラしているのは、一体何故なのか。

「――…」

蒼命に、隠し事をされている。しかも、自分は知らないその中身を、太乙は知っている。

それが、妙に腹立たしい。

「………」

軽く尖らせた口から、溜息を零す。ああ嫌だ。こういう事がある度に、自分の狭量さを痛感する。彼女の気持ちを疑わない割に、他の男と一緒にいるのを見掛けたり、楽しそうに話しているのも見たりすると、どうにもムシャクシャする。特別な関係になって、かなり経っているというに……。

「……はぁ」

隠し事をする彼女に対してか、隠し事をされてしまう自分に対してか、もう一度重い溜息を廊下に落とせば、屋内にもかかわらずそれは白い靄となり、そうしてすぐに宙に消えた。……ああ、寒い。

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