「――…だーれだ?」

突然目蓋を押さえられ、代わりに耳元で明るく弾むのは黄色い声。

「ははっ、莉梨だろう?」
「あったりー!」

それに当たり前の様に答えれば、正解である事を告げる明るい声。そうして今度聞こえてきたのは、


「……会いたかった――…」


そんな、とろける様な甘い声――…。


「………」

……まぁ、それを発している女も発せられている男も、よく知らない仙道達なのだが。この食堂で少し人を待っていたらば、自分が座っている此処から三つ前の机にいる男が目の端に入っただけなのだが。

「………」

しかし、そんな全く無関係な自分にでも明瞭に分かる、疑いようも無い完璧な恋人関係にある二人。

「………」

無意識に、頬杖をついてぼんやり眺めてしまう。


……あんな言動、最近のあやつから貰った事が無いのう。


ふと、そんな事が頭を過ぎった。自分の恋人は、決してああいう事はしない。別にして欲しいとも……いや、まぁ、別にされたくない訳ではないが、特に望みはしない。あやつはああいう事はしない、というより出来ない程に、かなり奥手な人間であるから。

「………」

しかし思い返してみれば、ようやく想いを通じ合えた今でも、どうにも同僚の域を出ていない気がする。何か仕掛けるのもいつだって自分の方からだ。まぁそれを拒まれる事も無いし、彼女の反応も微笑ましいから別に不服ではないが、何というか、物足りなさはある。
周囲は恐らく、自分達の関係には気付いていない。だからこそ時折あやつは他の男に想いを打ち明けられ、困った様な苦笑で断っているのだから。別に秘密にしている訳でも、かといって公表したいとも思っていないので公衆の面前で堂々明言する気も無いのだが、そんな事をしなくとも見るからに恋人同士な二人が今目の前にいる訳で、無駄な事なのに自分達と比べてしまう。

そんな、全く無関係な人達にはきっと分からないであろう、疑いようの無い完璧な恋人関係には程遠い、自分達。

「――…」

時々、あやつが自分達の特別な関係を忘れているのではないかと疑う事もある。余りにも、普通だから。

どうにも、あやつとの距離感が、分からない。


……こんな微妙な感じを、あやつは――蒼命は、どう思っているのかのう――…。



「――…だーれだ?」



――なんて戯れに近い考え事は、この瞬間、綺麗サッパリ忘れた。




……ちょっと待て。


「……あれ?」

ああ、待て待て。いや、待て。本当に待ってくれ、頼む。

「えっと……私が誰か、分からない?」

ああいや、それは分かっている。困惑した色でも耳に心地良い声も、此方の目を気遣って強く押さえ過ぎない様にしている手も、今後ろにいるのが誰であるかを何よりも明瞭に物語っている。

ただ……近い。近過ぎる。加えて、首の付け根辺りを後ろから押しているのが、いやに柔らかい二つの何かだという事が、自分にとっては大問題なのだ。

「……太公望?」
「!!!??」

返事が無い事への疑問が暖かい吐息として耳に吹き掛けられ、全身が過剰にビクついたと同時に反射的に口がその名を叫ぶ。

「〜〜――っ蒼命!!!」
「あ、良かった、分かったんだ!」

そう明るい声が発せられると同時にパッと目蓋を解放され、ガバッと振り返った先には満面の笑みの恋人の姿。

「っあ、あの、なぁ――!!!」
「あ、いや、何だかずっとあの二人を見ていたから、ああいうの太公望も興味があるのかと思って」
「〜〜…!!!」

邪気の欠片も無い彼女の楽しそうな笑顔を、しかしグッと睨んでしまう。そうでもしないと、この自分の動揺が彼女にバレてしまう。たかがこれ位でと思われたら、流石に男として面目が立たない。
いや、もうさっきの男に尊敬の眼差しを向けたい気分だ。自分はああいう事を頻繁にされたら、心臓が幾つあっても足りない気がする。


〜〜世の男共は、こんな強烈な攻撃に日々耐えているというのか!!?


なんて心の叫びは勿論聞こえていない蒼命は、それよりと胸の前で手を合わせる。

「待たせてごめんなさい!ちょっと支度してたから……じゃあ、お茶しようか!」
「うむ、では行くかのう」

蒼命の言葉にまだ少々煩い胸の辺りを宥めながら椅子から立ち上がり、執務室に近い入り口に向かおうとしたら、くんと袖を引っ張られて。

「む?――…っ!」
「あ、あの、今日のお茶なんだけどさ――…」

そう遠慮がちに切り出した蒼命はやけに身体を縮めていて、固まった此方の目の前で一度きゅっと唇を結び、それから心を固めた様にニコッと開き直し、真っ直ぐな眼で、その重大な提案を小さな声で放った。


「……私の部屋に、来ない?」
「……は?」


……マズい。今かなりの間抜け面をしているという自覚があるのに、それを消す表情筋の動かし方も、忘れた。

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