「今日は寒かったねー!」

駆け足気味に室内に入り、斜め下を見ながらそんな言葉を掛ければ、

「ばうあう!」

そんな元気な返事と共に、丸い瞳と黒い鼻が真っ直ぐ此方に向けられた。期待に満ちたその表情に此方も応えるべく、腰に着けた袋からブラシを取り出す。

「じゃあ、戻る前にいつものこれね!」
「ばう!」

すぐに返ってきた喜びの鳴き声に笑い掛けてからしゃがみ込み、白い毛を整えていく。大人しく鼻先を持ち上げ、目を閉じて気持ち良さそうにしてくれているのを見つつ、長い耳から足まで丁寧にブラッシング。爪は伸びていないから、今日は切らなくても大丈夫そう。
しかし、本当にいつ見てもツヤツヤな白い毛だ。この子の御主人の青い髪も、いつもツヤツヤだしなぁ……そんな事も考えつつブラシを仕舞い、嬉しそうに揺れるふわふわの尾と並んで廊下を歩き出す。そうして一つの部屋の前で一緒に止まり、コンコンと入り口の柱を叩いた。返ってきた入室を促す穏やかな声に、駆け込み気味に中に入る。

「っお疲れ様です、楊ゼンさん!」

冒頭少し詰まってしまったがそれを気にする様子も無く、手元の書簡から顔を上げて綺麗に笑うのは、此方の足元できちんと座るコウ天犬の御主人にして、この仙人界を統括する教主様。

「ああ、お帰り」

青い髪を揺らしてニコッと笑ってから、静かに書簡を机に置いて椅子からスッと立ち上がる。そんな一連の動作をじっと見ていたら、微笑んだまま此方に向かってくるものだから、反射的にピッと背筋が伸びる。コツコツと床を鳴らす音が近付いてきて、ドキドキと此方の心臓の音も大きくなってきて。いや、だって、ほら、至近距離に、楊ゼンさんが――…と息を呑んだ所で、サッと彼が視界から消えた。あれ、と瞬きしてから下を見れば、

「今日も楽しかったかい、コウ天犬?」
「ばう!」

彼の微笑みはコウ天犬に向けられていて、ちょっと物悲しい気持ちになる。が、しかしこう、可愛い犬と楽しそうに戯れる彼を見る事が出来たので、まぁいっかとすぐに変わる自分は単純だといつも感じるし、今も感じている。
と、ふっと彼が目を上げたから、パチッと音が聞こえたかと思う位にバッチリ目が合った。微笑を受け取る番が唐突に来て、ドキッと心臓が跳ね上がる。

「今日もありがとうございました。明日もよろしくお願いします、白夢」
「っはい!」

パッと返事を発し、ペコッと頭を下げてから弾かれたように執務室から出て行く。そのまま向こうの角へ早歩きで向かい、曲がった所で壁に寄り掛かって目を瞑る。そしてさっきまでの光景を思い出し、今日も良い日だった〜!と心の中で叫ぶまでが日課である。
私は彼が仕事をしている間、コウ天犬のお世話を任されている。お世話といっても、散歩、ブラッシング、爪や肉球などのお手入れ、お風呂位。宝貝だからか、或いは御主人がご飯をあげているのか、食事に関しては何もしていない。朝食後に楊ゼンの執務室へ行ってコウ天犬を預かり、諸々のお世話をして、夕方に戻ってくる。


……そんな重要任務を、何故か一道士である自分が、任されている。


だって、仙人界の教主様の傍にいる、時には彼の移動手段にもなり、彼の攻守を支えている、コウ天犬のお世話である。それは凄まじく重要な任務ではないか。もしもコウ天犬に何かあったら大変ではないか。いや、何かするつもりは勿論無いけれど。
そんな責任感あるこの仕事自体は、大好きだ。コウ天犬は可愛いし、憧れの人にちょっとだけ会えるし。


……今日もカッコ良かったなぁ、楊ゼンさん。


崑崙山の時から、強さでも容姿端麗さでも仙人界の噂の中心だった人。今や仙人界のトップである。
そんな雲の上の人に、好き、というのは、特に目立った事の無い一般道士には恐れ多い。何というか……そう、憧れの人。綺麗で、優しくて、強くて、少し陰があって、仙人界の為にいつも頑張っていて。
自分はずっと崑崙山でのんびりしていたし、二大仙人界の激突中もアワアワしていただけで、新しく誕生した此処でも、平凡の象徴のようにまたのんびりと暮らしている。唯一の非凡といえば、やはり今の仕事だけ。彼と接する機会も、それだけ。
そう、憧れの人に、コウ天犬の散歩をする前後、ちょっとだけ会える。この時間が、今の自分にとっては本当に幸せな時間なのだ。


……何で、私に任せてくれるんだろう?


そんないつも浮かぶ疑問に、でも幸せだからいっか、と小さく溜息を吐いてから壁から背を離し、浮き足立って部屋に帰るのも日課となった。



「今日は昨日より暖かかったねー!」
「ばうあう!」

そして今日も、散歩とブラッシングを終え、コウ天犬と共に廊下を歩く。武吉君と天祥君とも遊んだからか、コウ天犬はいつも以上に楽しそうに尾を振り、耳を浮かす位に元気に動いている。そんなコウ天犬を見ているだけで幸せになれるから、やっぱり私は単純なのだろうか。

「明日はどうかな――…?」

と、不意に前を向いたコウ天犬がむっと丸目を細めたので、何だろうと此方も前を向けば、

「……?」

女性道士が三人、執務室への進路を遮るように立っていた。明らかに歓迎的でない、とても冷え切った目で凝視されたので歩を止め、三人の顔を一人ずつ見ていく。何と無く見た事はある気がするが、喋った事は無い筈。一体何なのだろう。

「……あの――?」
「ちょっと何なの?」
「え?」
「貴女、単なる道士でしょ?」
「え……ああ、はい」
「それが一体どういう訳?どうやってあの方を騙して取り入ったの?」
「……何の、お話ですか?」

トゲトゲした声色も、話の内容も、此方こそ一体どういう訳なのか分からない。そうすれば、だから!と声を荒げ、一人の道士が此方にビシッと人差し指を向けた。

「何で貴女が楊ゼン様の犬の世話をしているの?」
「………」

明らかな因縁に、しかし思わず黙ってしまった。ちらと斜め下を見れば、不安そうに此方を見上げるコウ天犬。きっと人の言葉をちゃんと理解しているであろうコウ天犬を安心させてはあげたいが、上手い返答が見つからない。俯いたまま、この状況を何とかしなければと考えるものの、逆にいつも浮かんでいた疑問が大きくなるばかりで。
本当に、どうしてなのだろう。いつの間にかこれが日課になっていた。いつからだっただろうか。全く分からないのだ。いつの間にか誰かと友達になっていたのと同じように、この時点から、という境目が思い出せない。いつの間に、この役割を貰っていたのだろう。


……本当に何で、こんな私に任せてくれるんだろう――…?


「――…僕とコウ天犬が、白夢を気に入っているだけですよ」

そんな、綺麗な声が耳に届いた。顔を上げれば、三人の道士の顔が引き攣っていて、見開かれた目の焦点は此方に合っていない。此方の斜め後ろ、声が発せられた方に――…って、

「っよ、楊ゼンさん!!?」

バッと振り返れば、噂の中心がすぐ後ろに立っていて、心臓が飛び出たかと思った。っい、いつの間に!!?

「彼女は前に一度執務室に来た時、仕事が多い僕とそれに付き合って退屈そうなコウ天犬を見て、コウ天犬の散歩を進言してくれたんです。それから時々会った時に世話をお願いしていたら、いつの間にかそれが日課になってしまっていたんですよね」

ああ、そういえば、そんな事もあった。師匠から仕事を頼まれて執務室へ行った時、部屋の隅でしょんぼりと寝そべっているコウ天犬を見て、何かしたいなぁと思って……え、それがきっかけで、お世話を任せてくれているんですか?
そんな質問の言葉は、しかし本人登場にビックリしていたのでちっとも外に出てこなかったが、固まる此方を気にする様子も無くその本人は前に歩み出て。

「……ただ、コウ天犬のお世話は彼女にしか頼むつもりは無いので、彼女に何かあると、僕は非常に困るんです」

だから、彼女に何かしようとは思わないで下さいね――…?

そんな言外の圧を感じさせる整い過ぎた微笑に、サッと青褪めた道士達は、何かブツブツ言いながら逃げるように行ってしまった。

「………」
「仕事が早く終わったので少し散歩していたんですが、貴女を見掛けたものですから」
「……お疲れ、様です」

至近距離の微笑みに、しかし心臓はドキドキする事も出来ず、頭の中は真っ白状態だ。

「……何で、私に任せてくれるんですか?」

だからか、無意識にポロッと疑問を漏らしてしまった。瞬間、整った笑みが訝しげにちょっと崩れて。

「え、嫌なんですか?」
「っいや!嫌ではないです!……ない、ですけど……」

コウ天犬は可愛いし、憧れの人にちょっとだけ会えるし、でも、本当に何故……と腕を組んで眉間に皺を寄せると、楊ゼンは口元に手を当ててくすくすと笑い声を零す。そして、其処まで考え込む必要はありませんよ、とニコッと綺麗に笑って、その笑みを一ミリも崩さずに言った。


「僕が、貴女を好きだからですよ」


………。


「……は?」

間を置いて、思わず失礼な声を発してしまった。しかし、やはり意に介す様子も無く、

「今日もありがとうございました。明日もよろしくお願いします、白夢」

昨日も、一昨日も、その前も貰った、いつもの言葉と、いつもの微笑。なのに、いつもの返事も出来ず、立ち尽くす。揺れる青い髪と揺れる白い尾が離れていくのを、ただただ見つめるだけ。しばらく、歩き出す事も出来ず。


……いやいや、『気に入っている』とは仰ったけれど……そうですよね、それだけですよね、他意はありませんよね?


いつも浮かぶ疑問に答えてもらえた代わりに、とんでもない疑問を貰ってしまった。

明日から、どんな顔をして執務室に行けばいいのか……でも、他意が無くても、あの言葉自体にまたドキドキしている心臓も、無表情を装いたいのにニコニコとしたがる顔も、場所も考えずスキップをしようとする足も、幸せになりつつもそれを自制しつつちょっぴり期待したがる自分も、本当に単純だ。

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リゼ