ブラックスター R

心臓が口から飛び出るとは、昔の人はよく言ったものだ。
あんまり驚いて口が開いていることも気付かなかった。

「うわっ、歯並びもいいのかよ」

ひとつくらい欠点ねぇのか。謂れのない誉め言葉だか悪口だかを呟いて、虎徹さんは頭をぐしゃぐしゃかき乱す。

「…あなた、本気ですか?」
「仕方ねぇだろ! スポンサーがそれでチャラにするって言ってんだから」

はぁぁ、と深いため息を吐く僕に困ったような顔を向け、手に持っていたハンチング帽を弄る虎徹さんは口を尖らせて視線を泳がせている。
どうやら「悪いこと」であるというは理解しているようだ。

「だからってゲイ向けグラビアなんて許しませんよ!」
「う…俺だってやりたかねぇよ」

そう、彼が受けてきた仕事とは、笑顔でカメラに映るだけではない、相応にいやらしい格好をしてフィルムに収められるゲイ向けのいかがわしいグラビアだった。本当にこの人はあらゆる部分の自覚が足りない。

「断って下さい」
「えぇっ」
「えぇじゃないでしょう。あなたは僕の恋人なんですよ!?」

肩をがしりと掴んで詰め寄ると照れたように分かってるよと言った虎徹さんは、上目でこちらを見ながら、

「撮影、今夜だし…」

と、爆弾を落とした。

「はあ!?」
「ず、ずっと言えなくて、でも勝手にやったらバニー怒るだろうなとか考えたりしてたら」

言うのが遅れた、とぽつと呟いた虎徹さんは唇を尖らせる。
信じられない。バカかこの人は。

「大丈夫だって! そんなとんでもねぇことにはなんねぇよ。触ったりとかないし」

肩から手を離して頭を抱えていると、虎徹さんは呆れるようなことを言う。
イライラした。色物の仕事を平気で回すスポンサーにも、それを同じように平気で受ける虎徹さんにも。
俄に痛む目頭を揉んでいると、大丈夫かと心配そうな声が聞こえた。

「…虎徹さん、職務規程はご存知ですか」
「あるのは知ってるけど」
「生命活動及び精神衛生を脅かす可能性のある職務を拒絶したとしても、雇用主はこの者に何らかの罰則あるいはペナルティを与えてはならない」
「は?」
「生命活動及び精神」
「ああ違う違う! 聞こえなかったわけじゃないの! つかバニーちゃん、職務規程とか覚えてんの?」

当たり前です、と応えると恐ろしいーと呆れたように言うが、これくらいソラで言えなくてヒーローなどやってられない。
しかし虎徹さんは急に「あー」と間延びした声をあげて、にこっと笑った。

「なんか緊張解れたわ。ありがとな」
「ちょ、僕は別にあなたの緊張をほぐすために言ったんじゃ」

虎徹さんは憑き物が落ちたような顔をして片眉をあげ、僕から離れる。
その腕を掴もうとした瞬間、誰もいなかった休憩室にロイズさんが入ってきた。
彼は目を丸くしたあと、コインを取り出して自動販売機に向かう。

「仲がよろしいことだな。一年前の君達が夢のようだ」
「はあ、まあ」
「ところでバーナビー君、これから少し時間があるかね」

ガタン、と耳障りな音を立てて落ちてきたコーヒーを取り上げながらロイズさんは、僕に向かっていつもの無表情で言った。
言葉を濁していると、横で虎徹さんがハンチング帽を目深く被り直す。

「俺は行っていいんすよね」
「あ? ああ。君に用はないよ。虎徹君」
「ちょ、虎徹さん!」

この言い種、もしやロイズさんは今回の件を知らないのだろうか。
だとしたら問題だ。いくらスポンサーとはいえ雇用主を通さず仕事を持ち込むのは職務規程にも無論違反するだろうし、第一そんなことがまかり通るはずがない。
部屋を出ていこうとする虎徹さんを追いかけようとするが、ロイズさんは早速口を開いている。

「大手のスーツメーカーから君にオファーが来ていてね。コーヒーは?」
「あ、いえ。結構です…スーツメーカー?」
「ああ。若者受けするスタイリッシュでスマートなデザインが売りのメーカーで」

その後もロイズさんは何か言っていたが、僕は半分も聞いていなかった。
部屋を出ていった虎徹さんの背中が、一体何を物語っていたのかまるで分からない。
自分がグラビア雑誌に載ることで世間がどんな反応を示すのか、あの人は理解しているのだろうか。

「……」

待てよ。虎徹さんは雑誌と言ったか?
ゲイ向けグラビアの撮影の仕事が入ったんだと言っていた。
それが雑誌の撮影か動画の撮影かについては言及していない。悪い予感がする。

「なに、この前のように水着一枚になれと言ってるわけじゃない。スーツを着てキメてくれればそれでいいんだ」
「ロイズさん」
「ん?」

喋り終えてコーヒーを飲もうとしていた横顔に話しかける。
目だけをこちらに向けて嚥下するロイズさんは、僕の真剣な表情に何を思ったのか眉を寄せた。

「どうしたんだ?」
「虎徹さんのことなんですが」
「彼は別にいらないよ。スーツにあの髭は派手すぎる」
「いえ、あの…」

どう言えばいいものか、もしここでグラビアの話を持ち出したとして、虎徹さんが何か被害を被るなんてことはないだろうか。
もう一度彼が出ていったドアを見た。

「彼に、今夜何か仕事が入ってますか?」

結局遠回しな言い方になったが、ロイズさんは目を細める。
コーヒーを机に置き、彼は僕に背を向けた。
撫で付けられた髪を見ていると、ぼさぼさと四方八方に伸びる虎徹さんの髪が無性に触りたくなる。

「彼から何か聞いたのかい」
「ええ。…グラビアの撮影があるとか」
「グラビアか」

かつんと音を立て、ロイズさんは少し前に進んだ。自動販売機の煌々とした灯りが、無機質に彼を照らしている。

「正確には営業だ。カメラマンはスポンサー自身だから、彼は何でもするだろうね」
「な、知っててあなたは!」

声を荒げ詰め寄ると、ロイズさんは静かに振り向いた。その無表情の下にある本心は何を考えているのか、在りし日のマーベリックを思い出して少し背筋が凍る。
見下ろした先にある瞳は、僕を捉えているようでその実見てすらいない。

「自分のケツは自分で拭くということだ」
「……っ」

それは分かっている。十分過ぎるほどに。
だが今の僕にはそれを蹴飛ばしてロイズさんを責めることも、虎徹さんの元に駆け出して捕まえることも出来ない。
恋人が裸を曝して淫らに目を潤ませる姿を、他人に見られると思うだけで腸が煮える思いだった。

「とにかく君は君の仕事をしたまえ。明後日かその次の日に広報担当が来るそうだから、そのつもりで」

コーヒーをゴミ箱に突っ込んで、ロイズさんは来たときと変わらぬまま部屋を出ていく。
後ろ姿を見送った僕は、虎徹さんが何故グラビアのことを打ち明けてくれたか考えた。
別に言わなくてもよかったのに、彼は言った。
つまりそれは彼なりのサインだったのではないだろうか。

(助けて、とか)

不安にまみれた表情は、これから単なる撮影に臨む顔ではななかった。
もしかして虎徹さんそれに気付いて欲しくて言ったのかもしれない。
そう思うと焦燥感が募るが、彼が出ていってからもう十五分経っている。もう追い付けないだろう。
時計をみると午後六時半を少し過ぎていた。

(明日体を調べるか)

彼は嫌がるだろうけど。
僕がどれだけあなたを想っているか理解していないようだから、少しお灸を据えねばならない。


◇◇◇


「おはようございます」
「おう、おはよう。今日も早いな」
「あなたが遅いんです」

詰めている事務職員の女性が、僕に変わって声をあげた。苦笑した虎徹さんは「すみません」と小さく謝罪を述べて、いつものように僕の隣に座る。
ちらりと見る限り、普段と変わった様子はなかった。

「あ、ロイズさんがな、広報の人明日来るからよろしくだってよ。伝えりゃわかるって言ってたけど」
「ああ、ええ。分かりました。それより虎徹さん」

やや怪しい音のするオフィスチェアに腰掛けて、虎徹さんは足を組む。
買ってきていたコーヒーに口をつけるとこらで呼び止めると、得意のきょとんとした顔をこちらに向けた。

「昨日の撮影はどうなったんです?」
「…どうって、別にフツウだったよ」

一瞬空いた間を、僕は見逃さなかった。
すこし逸らした目線も気になる。

「ちょっといいですか」
「なんで」
「大したことじゃないです」
「じゃあここでいいだろ」

頑なに二人きりになりくないようで、虎徹さんはだらしなくデスクに顎を載せた。
そのとき、女性のデスクにある内線が鳴る。
何となく黙りこくった僕らを他所に、彼女は「今すぐ参りますわ」と最高の言葉を電話口に向かって喋った。
時同じくしてこちらはマズイと思ったのか、虎徹さんは顎を上げてコーヒーを掴んだ。

「少し出ますね。出掛けるならPCの電源はちゃんと消して下さいよタイガー」

後半は虎徹さんに向かった言葉で、彼は手を挙げて応えた。
そうして再び何となく彼女が出掛けるのを二人して目で追いかける。

「さてと、じゃあ俺も」
「どこへ行くんですか?」
「…便所?」
「何故疑問系なんです」

じっと見ると、虎徹さんは複雑そうな顔をしてハンチング帽をデスクに置いた。
観念したようにこちらを向いて、肘をつき手の平に顎をのせる。
僕も聞く態勢になって眼鏡を押し上げた。

「で?」

バニーちゃんこわーいと未だ茶化す虎徹さんをじろりと睨み、足を組む。
本気でイライラする。何なんだこの人は。僕を怒らせたいとしか思えない。

「あなたの身を案じて言っているんですよ!」

ばしっと机を叩く。怯んだ様子もない虎徹さんは口をへの字に曲げて依然手の平に顎を載せたままだ。

「体、見せてください」
「嫌」
「何かされたんですか」
「うん」

ぐ、と喉が苦しげに鳴る。それが僕の喉から出たのだと一秒してから気付いた。
変わらぬ表情の虎徹さんの目はまっすぐ僕を見ていて、こちらが居たたまれなくなるくらいだった。

「俺はお前の恋人だよ」

いきなり何を言い出すかと思えば。

「だから汚いところは見せたくない」
「虎徹さん!」
「元々キレイな部分探す方が難しいけどさ、でもそんなんでも…一応あるわけよ」

汚れてない場所ってのが。
朝のコーヒーは、温くなった。僕は何も言えずに笑う虎徹さんを、ただ見ているだけしかできない。

「大丈夫だよ。もうこんな仕事は受けない」

笑わないでください。
そんな辛そうな声をして、僕にまで笑わないで下さい。

「今夜、お前んち行くよ。いいだろ?」
「……ええ」

こんな仕事は受けないと、確かに僕は聞いた。
でもそれは嘘だった。
――虎徹さんはそれから事ある毎に、「撮影」へと出掛けていった。

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