あとは転がる石(♀虎)

今から泊まっていいかと時間帯に不釣り合いな陽気な声がして、僕はこめかみを押さえた。
大仰にため息をつくと「どうせ寝てないんだろ」と聞こえる。
確かに寝てはいなかった。が、暇だったわけでもない。

『なあ頼むよ。もう終電ないんだもん』
「ホテルに泊ればいいでしょう。どうしてわざわざ僕の家なんです」
『いいじゃねぇかよ。バディだろ』
「全く…大の大人が情けない。来るならさっさと来てください。キーは覚えてますね」
『サンキューバニー。いやー助かった』

けらけらと笑う様子から呑んでいるのかとも思ったが、何故かすぐに打ち消した。
普段の虎徹さんはこんな風に安心しきったようには笑わない。
まるで本当に助かったと思っているような声だ。

「虎徹さん、来るならミネラルウォーターを買ってきていただけませんか」
『あ…あーわりぃ。今小銭持ってなくて』

いつもなら絶対頼まないことで鎌をかけてみれば、即答で「任せろ」とでも言うお節介焼きの彼女が口を濁す。
たとえ紙幣しかなくとも店に入れば買えるものだが、恐らく虎徹さんは今店にも入りたくないと思っているのだ。
いよいよ怪しい。
僕はリクライニングチェアから立ち上がって窓の外を見る。よく晴れた満月だ。

「今どこですか?」
『え? 今ロト? 違う違う俺は』
「あなた耳までバカになったんですか。今どこにいるのか聞いてるんですよ」

苛立ちを押さえて聞けば、何故か虎徹さんは黙りこくってしまった。

「虎徹さん?」

不審に思って名前を呼べば、不意に来客を知らせるチャイムが鳴る。
一体こんな時間に誰だろうかと考えたところで、こんな時間に来る誰かなど限られているじゃないかと打ち消した。

「あなたですか?」

電話を肩に挟み、飲みかけだったワインをキッチンに片付けながら言えば、先程とは打って変わったか細い声で「うん」と肯定の返事がある。
僕が不在だったらどうするつもりだったのだろう。
虎徹さんが時々無茶な飲み方をして終電を逃すことが何度もあったと知っているが、それはあくまで彼女の住まうブロンズステージでの話だ。
ゴールドステージにまで来ているのだから、まずどこかにホテルを予約しているのが普通なはずだ。

「今開けます。電話を切りますよ」
『…うん』

電話をキッチンカウンターに置き、僕は玄関に向かう。
何だか胸騒ぎがした。


◇◇◇


「……な」

目の前にいる虎徹さんに、僕は開いた口が塞がらなかった。
こんばんはと呑気に言ってくる彼女を引っ張り、ポーチへと強引に連れ込む。
抵抗もなく簡単に引き込まれた体から、水がぽたぽたと滴った。

「一体何が…あったんですか」
「アハハ」

気まずそうに笑う虎徹さんの顔は泥だらけで、体からも泥の匂いを放っている。
しかも着ているものは男物のダウンジャケットで、まるで戦場にでもいたかのようにボロボロだ。

「喧嘩の仲裁に入ったら、三つ巴になって、最終的に敵が四人になった?」
「疑問系で言われても…とにかくそれを脱いで下さい。この時期にダウンって、どこから拾ってきたんですか」

素直にジャケットを脱いだ虎徹さんからそれを受け取って、とりあえず玄関にストックしているゴミ袋に突っ込む。
ダウンの下はいつもの服装だったが、こちらも無惨にあちこち破れていた。
なるほど、これを隠すためのダウンか。
瞠目して息を吐くと、ごめんなぁとまたもや呑気な声が聞こえる。

「まずその泥を落とさないと。ったく、あなたの世話を焼く僕の身にもなってくださいよ」
「いやあ、悪いな。お前なら断らないと思って」
「どっからその自信が湧くんですか…ちょっと、だめだ、不本意ですがこれで運びますよ」
「いっ、いやいや、ごめん、あとでちゃんと掃除するから! お前の服が汚れちまう」
「遠慮するところが違うんですよ」

言って、僕は虎徹さんの体を抱き上げた。
過去に二度、所謂お姫様抱っこをしているが、今日の彼女の驚くほどの軽さに少し拍子抜けする。
所在が掴めず胸の上で折り畳んでいる腕も、何だか細くみえた。
とりあえずと廊下を淡々と進み、乾いているバスルームに虎徹さんを放り込む。

「その服はそのへんに置いててください。あとで片付けますから」
「至れり尽くせりだな…」
「もちろんタダじゃありませんよ」
「ぬあっ、セレブのくせに!」
「無関係です」

言いはなってバスルームのドアを閉めた。
磨りガラスの向こう側で服を脱ぎ始めたことを司会の端で確認して、ようよう脱衣場から出る。
廊下に出てみれば、やはり床にポタポタと水滴が落ちていた。
あとで掃除するからとは言っていたが、彼女の苦手なもの第一位が掃除だということくらい知っている。

「…やるか」

深夜に他人が原因の汚れを片付けるなんて、一体どういう状況だろう。
思えばヒーローになって虎徹さんとバディを組んだ頃から僕はおかしい。
ウロボロスの人間以外には全く興味が持てなかったのに、何故か彼女には構ってほしくなる。構いたくなる。
こうして深夜に招き入れるなんて、昔の僕にはありえないことだ。
変えられてしまったのかもしれない。
いい意味でも、悪い意味でも。

(大体、喧嘩の仲裁って何でわざわざゴールドステージなんかで)

色々な考えを巡らせつつ、僕は雑巾を持ってきて床を拭いた。さっき虎徹さんを抱き上げて汚れた服からは、早くも泥臭さが匂っている。

「…?」

だが、その服から泥に混じって別の匂いもする気がして、裾を上げて鼻先に近付けた。
嗅いだことがあるような気がする。――いや、いっそ慣れて……。

「これ、は」

頭をがつんと打たれたような衝撃を受けた。
鼓動が早まる。間違いない。
…精の匂い。
はっとしてバスルームの方を見る。そういえば静かだ。前に彼女がシャワーを使ったときに聞いた音は聞こえない。
嫌な胸騒ぎが増していく。

「虎徹さん」

思わず口に出していた。雑巾を放って駆け出せば、広い室内とはいえ十秒もしないうちにバスルームに着く。
やはりシャワーの音は聞こえない。
僕は脱衣場の扉を開け、勢いよく磨りガラスのドアも開けた。

「…ッ」

まるい瞳と、視線が絡まる。

「ば、バニ」

下から、怯えたような声がした。僕は固まって動けない。
バスルームの床に踞り、眉を歪めて泣いている彼女は、僕の知っている虎徹さんではなかった。

「…虎徹、さん」

明るいオレンジ色の照明の下、その体には大小様々な痣や傷が刻まれている。
こちらを見る目の下にも、痛々しく皮膚が変色している部分があった。
――なにより、少しだけ見えている恥部の隙間から、鮮血と白濁の混ざった液体が太股へと滴っている。

「や」

虎徹さんが声をあげた。裸のまま立ち上がり、僕を押し退けてバスルームから逃げるように立ち去ろうと逃げる。
待って、と存外掠れた声が喉から迸った。

「か、帰るっ」
「何言っ、虎徹さん!」

よろけた体を何とか支え、全裸のまま廊下に飛び出した虎徹さんの腕を掴む。
ぐんっと慣性の法則で前のめりになった体を、すかさずつかまえた。

「はなっ、離せよッ」

じたばたと暴れる力を必死で押さえ込み、壁際に追い込む。自由な方の手でこちらをどこそこ叩きながら、まだ暴れる虎徹さんの背を壁に押し付け、体と足でようやく動きを封じた。
両腕は手首でまとめて頭の上で拘束する。
はあはあと大きく胸で息をする虎徹さんの目からは、次々と涙が溢れていた。

「う、っぅ、ふ」
「虎徹さん…僕を見て」

ゆらゆら揺れる琥珀の瞳を必死に覗くが、顔を背ける彼女はとうとう固く目を瞠ってしまう。
右手でその顎を掴み無理矢理僕の方へ向かせると、虎徹さんは何度か喘息気味に咳をしてからようやく抵抗をやめた。

「手、離しますけど…逃げないで下さいよ」

肩で息をして言えば何度か頷く虎徹さんの腕を、ゆっくりゆっくり離してやる。
余計な力が入っていたのか、両手首は赤く指の形に痣が出来てしまった。
だらんと下がった虎徹さんの腕は、体を伴ってその場に崩れる。溢れた涙が頬を伝う前に彼女の膝へと落ちた。

「少しだけ待ってて下さい」

そう言って立ち上がり、何か羽織るものがないかと踵を返したそのとき。

「……」

パンツの裾を、くっと引っ張る力があった。
ぱっとそちらを見れば、虎徹さんの手が裾を掴んでいる。

「おれ、」

俯いたままの顔から、小さな声が漏れた。
体格の小さな女性ばかりを目にしてきたが、それでも今日の虎徹さんはとても小さく見える。
膝をついて急いで自分の着ているTシャツを脱ぎ、虎徹さんに着せた。
腿まですっぽり隠れてしまって、彼女が女性であったのだと改めて気づかされる。

「俺、むり…無理矢理…ッ」
「言わないでいいです」

嗚咽を漏らす頭を、僕は思わず掻き抱いていた。


◇◇◇


久々に溜めた浴槽の湯は、虎徹さんにはちょうどよかったらしい。
無防備に背中を預けて、ほうと息をついている。
僕達は服を着たまま湯船に浸かり、互いの顔は見ないまま前を向いていた。

「ごめんな…」

さっきから壊れたように謝罪を繰り返す彼女に、僕はその度「いいえ」と言った。
共に入った浴槽は、それでも二人分の体をゆうに受け止めて大きなバスルームの部屋を選んでよかったと今更思う。

「今日な、結婚記念日だったんだ」
「……」
「で、いっつも記念日には贅沢しようって…ゴールドステージのレストランに行った」
「そう、だったんですか」

彼女の左手の薬指には、指輪のあとがくっきり残っていた。
死に別れたとしか知らない男性の影に、何故か酷く嫉妬している自分がいることに驚く。
いくらバディとはいえ、風呂を共にするなど考えられないことなのに。

「…俺、ヒーローなのに」

肩にぽすんと頭を預ける虎徹さんは、まるで独り言のように低い声で語る。
それでも、腹に緩く置かれている僕の手を上から包む手の平は優しい。

「怖くて、逃げられなかった」

すん、と鼻をすする音に切なさが募った。
同時に悔しくて手に力が篭る。

「能力だって使えたんだ…でも、手とか、おさ、押さえられて…殴られて…ッ」
「もういいですから、虎徹さん。ね、もう大丈夫ですから」

ガタガタと震える体を抱くと、小さく「ともや」と聞こえた。
ああ――それが指輪の名か。
でも今はいい。今は指輪の代わりでいいんだ。
壊れてしまいそうな肌に、上から覆い被さる。

「虎徹さん」

耳のすぐそばで言って、髪に隠れた耳を食んだ。ぴくっと跳ねた肩に触れ、耳から頬にかけてキスを落としていく。

「ば、バニー」
「トモヤで、いいです」
「え…?」
「今からあなたに触れるのは、…許すのはトモヤさんです。僕じゃない」
「そ、んっ」

ちゃぷちゃぷと湯が跳ねた。
熱い口内に舌を滑り込ませると、驚いたように縮こまるそれに吸い付いた。
たぶん、バニーと言ったのだろう。くぐもった声が口の中で響く。
その隙に、腕を伸ばして虎徹さんの体を抱えあげた。

「ちょ、バニー、待てよ」
「呼んでください。トモヤって」
「いやだ…だってお前、お前は」
「本気で抵抗しないなら、このまま行きます」

ざばっと浴槽から上がると、虎徹さんが複雑な表情でこちらを見上げている。
それが悲しみなのか寂しさなのか、あるいは諦めなのか。
僕には推し量れなかったけれど、胸にそっと添えられた頬に流れた涙はとても大きくて。

「トモヤ…」

たとえこれが間違いだとしても、彼女に触れられるなら。








おわり







そのまま失楽園に行けばいいんですよ。

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