あとすこしだけ
「虎徹さん」
いつもの彼の声がして、やっと肩の力を抜いた。よかった、今の、気付いてない。
俺は素知らぬ顔でトイレから出た。
呆れた顔をしたバニーがいた。なにも変わらない、バニーのままのバニーが。
「まったく、急にいなくなるから探しましたよ。席を外すなら一言断るのが礼儀でしょう」
「わりぃわりぃ。きゅーにトイレ行きたくなっちまってさ」
「二十分も、ですか?」
バニーの顔が曇る。俺は手に持っていたハンチング帽を被った。
今やつの顔をみたら、何だかなきそうだったから。わざと後ろを向いて無意味にトイレの性別表示を見上げる。
「腹の調子がなー、ちょっとなー」
「そうですか」
おまえは知らなくていいよ。綺麗でハンサムで、賢いけどびっくりするくらい純粋なおまえを、俺はもう傷つけたくない。
――おわったんなら行きますよ。そう言って俺の前を歩き出したバニーの頭を見ながら、あいつの気持ち悪いくらいにキラキラ光ってたブロンドを思い出す。
『いっそバニーと呼んでみるか?』
誰が呼ぶかクソ、と言った俺の声はそのまま喉の奥に消えた。
髪を引きちぎられる勢いで掴まれて、頭皮がじわじわと痛い。
ハハハと笑ったあいつの声がいまも鮮明に耳の中でリフレインしている。
『穢らわしい男だな。おまえは』
口の中で質量の増したソレが弾けた瞬間、俺は必死で吐かないように頑張った。
鼻を摘ままれ、顎を固定され、あいつの放ったもんを飲まされる。だめだった。俺はその場で胃の中身を全部吐いた。
あいつはまだ笑っている。腹を蹴られて向こう側に仰け反ると、やつは俺の吐いたものを踏みつけてこっちにきた。
それから俺の髪をふたたび掴み、顔を近付けてくる。
舌が顔を這い回り、また吐き気がした。
『おまえがもしワイルドタイガーを辞めたら…バーナビーに相手をしてもらうよ』
ぶわっと焦りが込み上げる。バニーが、俺がいなくなったらバニーが、こんな男に好き勝手されるなんて。
いやだ、だめだ。バニーはこれから幸せになるんだ。普通の恋愛をして、普通の結婚をして、かわいい子供をつくって、それで…。
『これからも精々私を飽きさせないよう努力するんだな』
カツ、と奴の靴音が遠ざかる。
俺は尻を床についたまま、口の色々な汚れもそのままに動かずにいた。
ドアが閉まる音がする。あいつが出ていったらしい。
俺はノロノロと立ち上がって、辺りを見回した。
吐いたもの以外は来たときと変わらない部屋は、つい数十分前と全く変わらない。
(戻らないと)
きっとバニーが怒ってる。
連絡もせずにどこに行ってたんだと詰め寄ってくる。そのとき、へんな匂いをさせてたら気付かれるから、洗わないと。
俺は部屋から出た。アポロンメディアの最上階応接間の更に奥、ビップ用だとかいう部屋は非常階段の近くに繋がっている。
俺は急いで階段を降り、見当をつけてドアを開けた。
近くにあるトイレに駆け込み、口をゆすぐ。
少しだけ落ち着いて洗面台の鏡を見ると、顔色の悪い酷い表情の俺がいる。
思わず吐いていた。呼吸すらままならない程激しく吐いて、頭がくらくらした。
ズルズルと床に落ちれば、誰かの靴の音が近付けてくる。
『は、…』
何とか立ち上がって、床に落ちたハンチング帽を拾い上げトイレを出ると、そこには驚いた顔をしたバニーがいた。
そうして前を往く奴を見ながら、ふらふらする足取りでついていく。
何か喋っていたが、よく聞こえない。
「聞いてるんですか!?」
「えっ、ああ、おう。聞いてる聞いてる」
半眼のバニーがまた呆れたようにため息をついた。
そうだ、それでいい。
おまえはこれからも、そうやって俺を叱ってくれ。
じゃなきゃきっと俺は壊れる。
許されたら、もう立って歩けない。
俺が――いやワイルドタイガーが、正義のヒーローであるために払った代償なんか、どうだっていいんだ。
「あなたには社会人としての自覚が足りないんですよ」
「悪かったって。あれ、そういえばバニー、インタビューは?」
「もう終わりました。だからこうして探しにきたんでしょうが」
そっか。
俺は短く答えた。
駄目だよバニーちゃん。俺、なんかもう泣きそうなんだ。
お前の顔みただけで救われる。お前が俺を癒してくれる。
大好きだ。大好きだよ。
「バディなんだから、もう少しちゃんとしてください」
「…うん」
だからもう少し、あいつが俺に飽きるまではさ。
「虎徹さん?」
あと少し、もう少しだけ、綺麗でハンサムで、賢いけどびっくりするくらい純粋なおまえのまんまで。
おわり
あとがき
初モブ虎でした。色々限界な虎は何だかもうハアハアします←
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