地惑空落 完結


一人残された沢田は、未だにぐずっていた。
雲雀さん、雲雀さん、そう繰り返す姿は呆れを超えて痛ましい。
まるで無理矢理引き裂かれた恋人を、忍んで焦がれて待っているようだ。



けれど――心の中では静かな警告が鳴り響く。
超直感による、絶対の警告が。



「胸、騒ぎ……?」


「お待たせ、ツナ君」


タイミングを図ったかのように現われた炎真は、アンティーク風のテーブルの上にココアの入ったカップを置いた。
ふわりとした甘さが鼻腔を擽り、なんだかまろやかな気持ちになる。
自然と、沢田の口元が綻んだ。


「わあ、ありがとう炎真君」

「どういたしまして。それを飲んだら続きをしないとね。今日中に終わらせなきゃいけない案件が幾つかあるし」

「ぅー」


しっかり釘を刺すことを忘れなかった炎真に、拗ねながらも沢田はココアを一口飲んだ。
口の中で広がる仄かな甘さが、疲れた身体に染み渡っていく。
――先程感じた胸騒ぎのことなど、もう何一つ考えないで。



――そうして、絡め取られたことも知らずに。



「美味しい?」

「うん! ココアなんて久々に飲んだよ」

「そうなの?」

「甘い飲み物は普段も禁止されてるんだよね。薬を盛られやすいから……って、あれ……」


ガシャンという音がした時には、沢田の持っていたカップは手の中から滑り落ちていた。
零れたココアが、薔薇の刺繍を施した絨毯に染み込んで跡を作っていく。
明らかに異変を感じた沢田だったが、霞がかったようにぼんやりとした頭では何も考えられない。
視界は定まらず、焦点も合っていない。


「エン、マ……くん?」

「ごめんね。一服盛っちゃった」

「!?」


言葉でしか悪怯れていない炎真の謝罪に、沢田はひどく傷ついたような顔をした。
どうして君が……両目の琥珀はそう訴え、信じられない気持ちに溢れていた。
炎真はカップを拾うとテーブルに置き、少し不機嫌そうに沢田を見下ろす。
名を示す深紅の双眸は、沸き上がる劣情に歪んでいて。


「それにしても、本当だったんだね」

「え……」

「ドン・ボンゴレから雲雀恭弥を奪ったら、思考回路も超直感も鈍るって」


妬けちゃうなぁとクスクス笑う炎真の声は、沢田の耳に聞き覚えがないものだった。
豹変など、もう通り越している。
目の前の人物は、仲間を欺いて陥れる狡猾なマフィアのボスだ。


「どう、し……今回のことも、みんな、君が、仕組ん、だ……の?」

「うん。シモンの皆に協力してもらったんだ。ツナ君と二人きりになりたくて。リボーンさんは……何か裏があると思ってたみたいだけどね」


でも彼はイタリアにいなかったから……と炎真が続ければ、沢田は自由が効かずに震える身体を抑えつけて擦れた声で問う。
違っていてほしいと、心の中で願いながら。



「そ、れは……ころ、す……た、め?」



そう発した瞬間、炎真の纏う雰囲気が変わった気がした。
肌を刺す冷たい空気を感じながら、沢田は己の甘さに舌打ちをする。
いくら友好関係を結んだとはいえ、昔からの確執を完全に取り払えるわけがない。
やはりシモンにとって、ボンゴレは憎き敵なのだ。
いつ反旗を翻しても不思議ではなかった、のに。
誘い出された皆は無事だろうか……と沢田の胸に一抹の不安が過る。
もし、戦力を分散させることが彼等の狙いだとしたら――。



「別に誰にも危害を加えるつもりはないよ」



少しだけ柔らかい物腰になった炎真は、沢田を姫抱きにしながらソファに座った。
明らかに脅え――否、警戒心と敵意を剥き出しにしている沢田は、物凄い形相で相手を一睨みする。
容赦の無い拒絶に、炎真は寂しそうに笑った。


「さすがの僕でも傷つくんだけど」

「雲雀さんに手を出したらいくらお前でも許さない!」


沢田が口にしたのは、自分の命よりも大切な、そう唯一の存在。
充分すぎる殺意を受けながら、炎真はそっと沢田の額に口づける。
ざわり、とした悪寒が、沢田の全身を駆け巡った。


「なっ「ツナ君はいつだって雲雀さんのことしか頭にないんだね。だから、悔しかった。僕はやっぱり勝てないんだなって」



本命でなくてもいい。
愛人でもいい。
そう願って関係を持ちかけたのは炎真自身。
沢田はそれを受け入れ、手を差し延べただけ。
しかし元を正すなら、それが罪か。


「アーデルハイトと何度も作戦を練ったよ。どうしたら君を手に入れられるか、ずっと考えてた」

「そんな……だって彼女は君を「アーデルハイトは僕の部下。ただそれだけだよ。僕が愛してるのはツナ君だけだから」


炎真の真摯な告白に、沢田は胸がズキズキと痛むのを感じた。
そんな簡単に、しかもそんな言葉で片づけたら――彼女が浮かばれない。
じわり、と沢田の目元に涙が込み上げる。



――十年前、時を隔てた憎しみの果ての死闘。
命懸けで雲雀と戦った時、肉体を派手に損傷しながらも彼女は……。





『お前達を炎真の元に行かせるわけにはいかないっ!!』


『なんで、どうしてそこまでしてあなたはっ!?』


『炎真を護ることが私の役目。例えこの身が滅びようとお前達は此処で倒すっ!!』





――炎真と同じ深紅の眼が、抱いていたのは。



――そう、紛れもなく。





「っ……」

「ねえ、ツナ君。僕の手を取ってくれる?」


沢田が流す涙の意味を知りながら、それでも残酷に炎真は乞う。
同情からでも憐憫からでも、頷けば、この手を取ったなら、地の底まで引きずり込む。
――餓えた、昏い欲望を隠して。



「お、れは……」



裏切れない、裏切れない。
手を取ってはいけないの、振り払わなくてはいけないの。
この心はただ一人に焦がれ、どこまでも堕ちていくと誓ったのだから。
――そう、誓ったのに。
それなのに……俺は、貴方を……っ!





「炎真、君……」


唇から零れ落ちた名は、沢田が狂うほどに欲した名ではなかった。
虚ろな琥珀が、彷徨う指先が、対となる属性に熱を孕んで絡む。
雲雀さんが好き、今はその一言でさえ、言葉にできなくて。
ぼんやりとした頭から抜け落ちていくのは、記憶の欠片。
刹那に変わらぬはずの煌めき。
溺死する心、引き摺り落とされた――空。





「――ねえ、ツナ君が愛してるのは誰?」



「――」





意地悪く囁く大地に、囚われの大空は小さな声で呟いた。













【地惑空落―チマドイクウラク―】



もう翼を広げる必要はないから。
君が知らない世界を、僕が見せてあげる。



――どこまでも二人、沈んでいこう。











fin

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