氷独凍死〜ヒョウドクトウシ〜 アラ雲前提、骸雲10年後捏造


ゆらゆらと、水面が波立っていた。
ボンゴレ本部内に設置された屋内の広めのプールは、細やかな憩いの場といったところか。
その中央に、東洋の顔立ちをした黒髪の男が静かに立っていた。
靴は当然脱いでいるものの、スーツは着崩れなく纏ったままだ。
彼はどこかぼんやりとした様子で俯き、水面を見つめている。
映り込むのは自分の顔。
けれどたった一つ違う点に、彼は水鏡を手で払い退けた。
音がバシャンッと響き、写し込んでいたソレは乱れて明確な像を結ばない。



……ぴきっ、と歪な音が聞こえた。



「っ……」


男は眉をしかめ、徐々に冷えていく水から逃れてプールを出る。
濡れて服が纏わりつく感触が気持ち悪く、足取りも重い。
こうなることは目に見えていたはずだ。
子供にだって解る。
ソレを敢えて行ったのは、彼に考えがあってのことか気紛れか。
億劫な身体を動かし、プールサイドから出ると後ろを振り返る。
……プールの水は完全に凍りついていた。
アイススケートができるほど分厚く、真っ平らだ。
何が起きたのか、見た者がいたら目を疑うだろう。
だが、男自身は驚く素振りも見せず、踵を返して歩き出した。
不自然なほど自然過ぎる動作で。
廊下へと続くドアの前まで来た時、ふと立ち止まる。
外側に、嫌な気配を感じた。


「……誰?」


不満げに訊ねる裏で、男は答えを知っていた。
にも関わらず発したのは、嫌味を含むからだ。
声は未だ返らない。
短気な性質故、苛立ちが募った。


「何か言いたいことがあるなら言えば?」


「いえ、面白いなぁと思いまして」


ドアが開くことはなく、代わりに背後から笑いを含んだ声が響いた。
男が後ろを振り向くと、眼前に見知った青年が視界に入る。
南国の果実を思わせる藍色の髪型に、色違いのオッドアイ。
蒼緋を宿すソレは、どこか人間らしさを失わせていた。


「ふうん。君も同じ目に遭いたいの?」


「まさか。でも……そうですね。愛しい人の手で凍り漬けにされるのも中々ロマンチックだ」


「虫酸が走るよ」


にべもなく切り捨てるが、男は背を向けようとはしない。
隙を見せれば命取りになることぐらい解っているからだ。
睨み据える黒曜石の瞳が、一瞬だけ薄蒼色に変わった。
青年は見逃さず、口元に薄らと弧を描く。
その心中は、間違っても好ましいものではない。
醜い欲を孕み、蒼緋は先程より濁っていた。


「呪われましたか?」


「何のこと?」


「遥か過去の亡霊に、ですよ」


青年の揶揄めいた口調は、男の殺意を揺らす一方だった。
けれど彼は、その昂ぶりを衝動を必死に抑えている。
顔には決して出さないが、無意識に握り締めている両の拳が裏づけた。
常に持ち歩いている獲物は此処にはない。
アレは金属性で、不用意に水と接触させるのは望ましくないためだ。
それに今の彼ならば、そんなモノがなくとも人ぐらい簡単に殺せる。


「どうだろうね」


「おや、呪いではないと?」


「君には関係ないことだよ」


無表情で男は答えた。
一切の感情を隠し、内側に押し込めて。
“彼の人”は精神を凍らせる術までは与えてくれなかったから。
物理的になら、いくらでも拒めるのに。


「それで、何の用?」


「この場所に君がいた理由をお聞きしても?」


「気紛れだよ」


他愛のない、傍から見れば無駄な対話が続く。
男はいい加減切り上げて戻りたかった。
それでなくとも濡れた衣服の儘が不快なのだから。
自業自得と言えば仕方ないが、青年が現われなければ早く部屋に戻れたのもまた事実。
邪魔をされた、という彼の不機嫌は一応は理にかなっている。



――尚も向かい合う状態が続く中、前触れなく均衡を破ったのは青年の方だった。



「――っ!?」


突然腕が伸びてきて抱き締められ、男は目を見張った。
良くも悪くも感情の昂ぶりは、彼に宿る異質を呼び覚ます。
凍り始めた青年の腕を見て、男は引き剥がそうと抵抗を試みた。
胸を叩き、押し、素足にも関わらず相手を思い切り蹴って。
しかしどの抵抗も無駄に終わり、逆に拘束は強められていく。
離れる意思など微塵もないらしい。
男の頭に、カッと血が昇った。


「馬鹿じゃないの死にたいのっ!!」


「君の記憶に、一番遺るにはどうしたらいいでしょうね」


「知らないよっ! いいから離れ「――“あの人”のように君を呪えばいいのか。若しくは君の手で殺されればいいのか。この氷が君の命を奪うことはないでしょうから……死ぬのは僕だけで済む」


耳元で低く囁かれ、男は背筋が震えた。
声もまた、ドロリとした粘着性の強い欲を孕んでいる。
全ての抵抗を忘れさせてしまうぐらいに。
“彼の人”以上かもしれない、と男は思った。
――同時に、恐ろしくもあった。
氷は侵食し、青年の腕から上半身へとじわじわ凍らせていく。
彼の言った通り、この氷が男を凍らせることはない。
どんなに感情が制御不能になっても、犠牲となるのは周囲の物や人だ。
忘れ形見の呪いは、護るためではなく独占(まも)るため。
……彼を、独りにさせるため。



「君まで、死ぬの……」



堪え切れず、嘆きが零れ落ちた。
弱々しく震えた、恨みの言の葉。
感情を寄せた相手を、“もう”失いたくはない。
これを恋や愛で括れるほど、男は単純ではなかった。
占めていたのは、喪失への悲哀。
“彼の人”は呪いを遺し、目の前の彼は己の死を遺そうとしている。
後者は、男に殺されるという形でだ。


「君達は、勝手だよ……。遺された僕は、たった独り遺された、僕は……っ!!」


「恭――」


限界を疾うに超越した叫びは、異質に更に拍車をかけた。
宥めるように青年が唇を重ねた瞬間、阻むように氷が彼の全身を覆っていく。
怒れる、守護の下に。
瞬きさえ許さぬ速度で悲劇は展開され……生きたオブジェは、完成した。
彼の意思を裏切った、望まぬ芸術。


「……ぁ、ぁ」


刹那の感触を、指先で唇をなぞり確かめる。
それから氷に触れれば、凍てつく冷たさと無機質な硬さだけが残った。
永遠の、氷牢。
溶けることは永劫ない。
これは、見せしめ。
容せば、喪うと。



「……貴方は、どこまで奪ったら気が済むの」





青年を包む氷をたどたどしくなぞり、呟く。
聞き届ける者は、誰もいない。












――だから赦される、告白。























【氷独凍死〜ヒョウドクトウシ】
(これを呪いと呼ばないのは、僕自身が望んだからだ。だけど、君を殺したのも――)































fin


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