涙さえ愛しく/前編


(ごめんなさい、)







「実は………僕、引っ越すことになったんです……」

「え?」





それはほんの些細なことでした。





僕とハル先輩はセレクションで出会う。チェロ専攻の僕とピアノ専攻の先輩。奏でる楽器は全く違うものだったけれど、だから尚更、先輩の音は僕の中にすとん。と落ちてきた。


それからどちらとなく、付き合い始めて。もう半年。



「うそ、だよね…?」

「………嘘じゃ、ありません」



なんて僕は悪い恋人なんだろう。ごめんなさい。本当に、些細なことだったんです。




毎月五日は僕らの記念日。
次で6回目になる記念日も毎回二人きりで過ごしていたから、今回も一緒にいようね。と先輩が僕に笑いかけたのは一週間前。けど、僕は見てしまった。三日前、先輩が土浦先輩と二人で駅前広場のお店にはいっていくところを。

セレクション中から先輩たちは同じ楽器というのもあって仲が良くて、僕はそんな二人をいつも見ていて、二人は僕の尊敬している先輩で…。
土浦先輩とハル先輩はあの日きっとなにもなかった。それは信じられる。けれどその事実を、そうなんですか。って受け止められるほど僕には余裕がなかった。


(先輩は、僕のこと、好き?)思っちゃいけない感情が浮んでくる。


先輩、ごめんなさい。
どうしていいのかわからないんです。



だから僕、先輩に意地悪をすることにしました。



「おばが、近々引っ越してしまうので…僕も、転校することに…」

「そう、なんだ…」

「この事は学校にもまだ言っていないので………誰にも言わないでください。…じゃあ。」

「あ、桂ちゃ、」

「…今まで、ありがとうございました」



ハル先輩が僕の名前を呼んでも、僕は振り向かなかった。きっと後ろで先輩はすごく傷ついた顔で僕の背中を見てるんだろう。本当はすごく胸のあたりが痛くて、穴があきそうで。僕は、この感情をなんて呼んだらいいのかわからないから。


だから、先輩、教えてください。



この痛みはどうすれば治りますか。








毎朝、交差点で僕は先輩と待ち合わせる。というかたまたま行く時間が同じで、それから一緒に行くようになった。

今日は、いつもにもまして寝坊をした。起きて枕元の目覚まし時計を見れば、短針が九時を指していた。完璧、遅刻。



(まぁ…いいか)二人の先輩の楽しそうな笑顔を思い出す度に僕の胸のあたりがきりきりとした痛みに襲われる。喉の奥にはじんわりとした熱がこもっていて、僕、もしかしたら病気なのかもしれない。そう思った。



ぼんやりと枕に頭を預ける。だんだん頭も痛くなってきた気がする。ほんとに病気かな。


起き抜けのうつろな視界にちかちかと光が映る。携帯だった。手を伸ばして、充電器からもぎ取る。先輩かもしれない、っていう淡い期待を寄せて。



(“珍しいなぁ〜、休み?”)

ディスプレイに表示されたのは“仁科”の文字。



先輩じゃあない。なんだかよくわからないけどどきどきしていた気持ちが一気に覚めた感じがした。うまくチェロを弾けていたのに、突然途中で練習室に火原先輩がトランペットを吹きながら入ってきた、みたいな。



そしたら、携帯がまた光った。今度こそ、先輩に違いない。案の定携帯の画面には先輩のよく使う絵文字が並んでいた。



(“交差点で会わなかったけど、学校来てるの?もしかして風邪ひいた?大丈夫?”)



昨日先輩にあんなに酷い態度をとって、先輩は気付いてないのかもしれないけれど、嘘までついたのに。そんな時にも先輩は僕のこと、こんな風に気にかけてくれる。(ごめんなさい。)そう謝れたらこの喉の奥の痛みもなくなるのかな。



結局メールを返すのはやめた。先輩はきっとメールを返せばまた普通通りに接してくるんだろうから。僕は、仲直りしたいけど、したくないというか。そんな、曖昧で矛盾するような感じが心臓のあたりにある。


けれど僕が先輩にしてほしいのはそういうことじゃないんだ。と思う。自分でもなにをしているのか、なにをしていいのかよくわからない。
だから、困ってる。





----ああ、僕、今先輩に会いたい。ただそれだけ。




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リゼ