祭りの日(六紫)
街は大層賑わっていることだろう。なんてったって、今日は年に一度きりの祭の日なのだ。男共は皆、ねじり鉢巻を巻いて神輿担ぎに精を出しているのだろうし、女たちは艶やかな浴衣に髪を結い上げて美しく着飾っているに違いない。
「祭ねえ……」
店の扉を閉めていても、賑やかな祭囃子が聞こえてくる。兄さんはうっとりとした表情で、それに耳を傾けている。
「やっぱりいいわあ。この、猛暑日の最中、男の筋肉を滴る汗!活気づいた声!ううん、想像するだけでゾクゾクしちゃう!」
「なら、祭に行っといでよ。こんなところにいないで、サ」
「イヤよ。紫外線は乙女の天敵なのよ」
乙女、という言葉が引っ掛かるけど、いつものことなので気にしない。
「それに、暑いのも苦手なのよねえ。暑苦しい男は大歓迎なんだけど。ほら、ここは冷房が効いてて涼しいじゃない?」
「それならもう止めるよ。まったく、兄さんが遊びに来ると電気代をくっちまうからイヤだよ」
「兄さんじゃなくて、姉さんよ! 紫、あんた、ケチな女はモテないわよ」
「それで結構さね。アタシは兄さんみたいに、男に飢えてないもんで」
「なによう! ア、アタシにだって好い男がいるのよ!」
先日出逢ったという男の話に適当に相槌を打つ。
「それでね、今夜の花火を一緒に見に行くことになってるのよ。アタシが強引にさ……いえ、向こうから熱烈にアプローチされちゃって!」
どうやら相手の男もだいぶ苦労しているようだ。ま、兄さんに捕まっちまったのが運のつきさ。御愁傷様。
「というわけで、紫に浴衣の着付けを頼もうと思ってね。紫、浴衣いっぱい持ってるでしょ?」
「まったく。しょうがないねェ。床の間に鹿ノ子がいるはずだから、出してもらってくんないかい?」
「ありがとう! 持つべきものは妹ね、やっぱり」
カウンター越しに伸ばしてきた兄さんの手を払う。少し不服そうな顔をしたけれど、すぐに上機嫌に鼻唄を歌いながら、兄さんは出ていった。
急に静かになった店内を眺める。今夜は花火も上がることだし、客が大勢来るだろう。アタシひとりじゃ店をまわせないから、毎年祭りの日は店を閉めていた。でも。
「今年ばっかりは、そうもいかないね」
毎年見に行っていた花火だけど、今年はやめとこう。独りで見る花火ほど、虚しいものはないのだし。今までは、アイツと行っていたんだけどねェ。まったく、今頃どこをほっつき歩いているんだか。
「紫!」
奥からどたばたと騒がしい足音を鳴らしながら、兄さんが走ってくる。
「これに決めたわ。着付け、お願いね」
「いいけど……今から着るのかい?」
「ええ。後で髪のセットを美容院でしてもらうから、その前に」
「そうかい。それじゃ、ぱぱっと済ましちまおうか」
「丁寧に頼むわよう」
床の間は浴衣の箱で散らかっていた。まったく酷い有り様だ。
「あ、姐さん!」
姿見の前に立っていた鹿ノ子がくるりと振り返った。手に浴衣を持っているところを見ると、合わせていたようだ。
「おや、あんたも行くのかい? 今日の祭」
「うん。あのさ、こっちとこっち、どっちがいいかなあ?」
鹿ノ子が持っているのは、黒地に桜模様の浴衣と、薄いピンク地に金魚模様の浴衣だ。どっちも鹿ノ子によく似合うと思うが、さて。
「そうさね……どっちも可愛いけど、アタシはそっちの金魚模様がいいと思うね」
「こっち?」
「ああ。そっちの方が、デートには丁度いいんじゃないかい?」
「えっ!」
鹿ノ子が顔を真っ赤にして飛び上がった。
「うっそお、鹿ノ子ちゃん、彼氏いたの?」
兄さんがニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら言った。
「い、いないよ! そんなの!アイツはただの……」
「照れちゃって。んもう、まだまだお子ちゃまかと思ってたのに、ちゃっかりやることやってんのね」
「だから、そんなんじゃないってば。もう!」
ぷい、と鹿ノ子はそっぽを向いてしまった。ちょっとからかいが過ぎただろうか。でも、あながち間違っちゃいないと思うんだけどねェ。
「ごめん、ごめん。それで、どっちの浴衣にするんだい?」
「……こっち、にするよ」
鹿ノ子が選んだのは、アタシが進めた金魚模様の浴衣だった。
なんだい、やっぱり、まんざらでもないんじゃないか。ふっ、と頬が綻ぶ。
兄さんの着付けをすませると、「じゃあ、アタシはもう行くわね」と、あっという間に出ていってしまった。まったく、嵐のような人だ。それでも、離れて暮らす妹を心配して、こうしてしょっちゅう顔を見せてくれるだけいいか。
「さて、次はあんたの番だよ。鹿ノ子」
いつも和風の服装を好んで身につけている鹿ノ子は、浴衣もすんなりと着こなしてしまった。少し凹凸の寂しさはあるものの、そんなものはこれからいくらでも成長していくだろう。
「わあ! ありがとう、姐さん」
「帯はきつくないかい?」
「ん。大丈夫」
浴衣にあわせて選んだ山吹色の帯をぽん、と叩いて、鹿ノ子が言った。
「さあさ、まだ終わりじゃないよ。そのままじゃ、頭が寂しいからね」
化粧台の前に鹿ノ子を座らせて、栗色の紙を櫛でとかす。いつもはお転婆な鹿ノ子も、いまばかりは大人しくされるがままになっていた。
「ねえ。姐さんは、今日の祭に行かないの?」
「まあね。店もあるし」
「休みにすればいいじゃないか。せっかくの祭の日なんだし」
「そうはいかないよ。それに、祭も独りじゃかえって虚しいもんさ」
「ふうん。姐さん、いろんな人からお誘いいっぱいあったのに。それとも、好きな人がいるの?」
「……いたって、逢えなきゃしょうがないさ」
「どんな人なの?」
頭の中に、あの男の顔が浮かぶ。もう、どれくらい逢っていないか。それでも、あの男の顔は、鮮明に思い出すことができるからたちが悪い。
「ろくでもない男さ。……さ、これでよし」
短い髪をどうにか集めて作ったおだんごに、簪をさす。鹿ノ子は嬉しそうに、鏡で出来栄えを確かめている。
さて、そろそろ店に戻るとするかね。
立ち上がろうとすると、鹿ノ子がアタシの着ている着物の裾を手で掴んだ。反動で少しバランスを崩したが、なんとか倒れこまずに持ち直す。
「ちょっと、なんだい?」
「ね、次はアタシが、姐さんの着付けしてやるよ」
「……だから、アタシは祭りには行かないって言ってるだろう」
「でも、浴衣に着替えるくらいいいじゃんか。せっかくの祭なんだし」
鹿ノ子に言いくるめられてしまった。まあ、着物よりも浴衣の方が風通しがいいしねえ。
「それじゃ、姐さんの浴衣はアタシが選んであげる」
あれこれ悩みながら鹿ノ子が選んだのは、薄紫の生地に縞菖蒲模様の浴衣。偶然にも、それは一昨年の祭に着た浴衣と同じものだった。
「やっぱり、姐さんには紫の色がよく似合うと思うんだ」
お前には、紫がよく似合う。
一昨年の祭の日、アイツにもやっぱり同じことを言われた。アイツは、そんなこと、もう覚えちゃいないだろうけど。
いま、逢えたら。アイツはあのときと同じように、言ってくれるだろうか。
「しょうがない子だねェ」。人懐っこい笑みを浮かべている鹿ノ子を見ると、思わず頬が緩んでしまう。
鹿ノ子の着付けは危なっかしいもんだったが、それなりに形になっていた。
「ありがとね。もうそろそろ、いかなくていいのかい?」
「うん。もう行く」
「楽しんどいで。あんまり遅くなるんじゃないよ」
店の扉をガラリと音をたてて開けば、夏の空気が流れ込んでくる。
「……おや?」
一度外に出た鹿ノ子が、扉からひょっこりと顔を覗かせた。
「どうかしたのかい?」
そう訊くと、鹿ノ子は少しつり上がった大きな瞳をくりくりとさせて、こっちを見ている。
「……ううん、なんでもない!」
そう言って、ぱっと飛び出していってしまった。なんだい、おかしな子だねえ。
つづく
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