遺恨(極愛)


 死にゆくのなら、せめてなにも遺さぬように。

 国に捧げるために生まれた命だと理解したとき、ボクは大切なものを作らぬと決めた。それは、兄さまからの言い付けでもあり、ボク自身の考えでもあった。

 命がなんたるか、ボクが知ったのは、母さまが亡くなったときに知った。母さまが死んだのは、この国のためでも、誰のためでもなく、流行り病におかされたのだ。母さまの身体にかつての面影はなかった。白かった肌は色をなくし、透き通るみずみずしさなどなく、まるで枯れ木のように痩せ細っていた。その過程を、ボクは見ていた。その最後を。

 あとは、実にあっけないものだ。軍の上層部にいた父さまの妻の死、にもかかわらず、葬儀はごく密やかに行われた。そこに父さまの姿も、兄さまの姿もなかった。戦場に行っていたからだ。母さまの身体は燃え、骨を狭い壺に納められ、土に潜った。それで、終わり。

 命とはいつか終わるものであり、その過程にこそ意味がある。どう生きるか、どう生きたか。それは、死にゆく者のためにではなく、遺された者のためにこそあるのだ。

 ボクは、たったひとり、母さまにたいして特別な感情を持っていた。それは、愛情というものだったのだろう。いまにして思えば。母さまがいなくなったいま、確かな意味は分からない。ボクは、その感情を忘れてしまったからだ。忘れるように努めるのだと、兄さまに言われた。ただ、国のため、戦う猿になるのだ、と。愛情云々といった無駄な感情は邪魔なだけだ。捨てろ。兄さまは、そう言った。

 死んだ命に価値はない。想うことに意味などない。

 ボクは母さまを恨んだ。母さまの肉体はもうないというのに、感情を抱く意味すらないのに、母さまは死してなお、ボクの中に侵食している。それは、ボクが忘れたがってある感情のひとつに他ならない。

 先に逝くのなら、余計な感情などを教えないでよかったのだ。愛情など、哀しみなど、ボクに必要でないものならば。

 あまりにも残酷だ。


「いっそのこと、私を殺してくださいな」

 あの女はそう言った。なぜかボクにまとわりついていた、馬鹿な女。

「きょひょ。なぜ、ボクがそんな面倒なことをせねばならないのだ?」

「極卒さまが死にゆくならば、その前に、私を殺してください」

「自ら死を懇願するなど、ついに気が触れたか?愛子」

「いいえ。私はいたって正常ですわ。だから、きっと極卒さまのいない世界に、耐えられないでしょう。ならば、私は愛する貴方に殺されたいのです」

 愛子は、いつもと変わらない微笑みを浮かべ、そう言った。

 なぜ、急にそんなことを言い出したのか?分かっている。明日、ボクが死ぬことを、知ったからだろう。敵地への特攻。それは自らの命をも巻き込むことになるのは必須であり、国のために死ぬことができる名誉でもある。

「人はいつか死ぬ。そんなことは分かってますわ。でも、戦場で死んだら、きっとその身体は戻ってはこない。私はきっと、死んだ貴方の帰りを待ち続けるわ。そんなの……耐えられない」

「ずいぶんと身勝手な女だな。自分のために、ボクに殺せと?」

「ええ。その通りですわ」

 ボクは、大切なものはなにひとつ作らないと決めた。目の前の女だって例外ではない。ボクの死を揺るがす存在などではない。ただ、この女の考えは、ボクの考えに通づるところがある。

「……きょひょ。愛子。お前は、なにか勘違いをしているようだ。ボクが戦場へ行くのは、死ぬためじゃない。殺すためだ。ひとつでも多くの命を、消すためだ。それ以上ボクを愚弄するなら、その貧弱な喉をいますぐへし折ってやるところだが、お前にはそうすることすら罰ではないのだったな。まったく」

 面倒な女だ。

 ボクはただの快楽殺人者ではない。意味のない殺しなど、後処理が面倒なだけだ。しかも、この女は貴族の令嬢だ。面倒、実に面倒なことに。
 
 煩わしい。

「きひょひょ。では、ボクはもう行く。お前も早く帰れ。後で叱られるのは、このボクなのだぞ」

 そう言い捨てて踵を返せば、もうあの女はこれ以上追っては来ない。なかなかに愚かしい女だが、わきまえるときを間違えることはなかった。

 それが、最後。


 かろうじて目を開けば、右目は空を映して、左目は暗いままだった。ああ、生き長らえてしまったのだ、と分かった。死ぬつもりだったのに。それとも、ここは地獄か?まさか。地獄がこんなに鮮明であっていいはずがない。

 傍らで燃え上がる炎を見やれば、じきにボクの身体まで焼き尽くすことだろう。跡形もなく、残った骨さえ拾われることなく、土へ還るのだ。名誉の死。まさしくその通りだ。ボクの望んだ、理想の終わり。

 なのに、なぜだ?脳内を掠めてゆくのは、この世に生きた記憶ばかり。走馬灯なんて未練がましいものを、ボクは見ているというのか。

 遺すものなど、あってはならないと思っていた。母さまがボクに遺したものを、ボクもまた、誰かに遺すことは愚かなことだと、そう思っていた。

 これじゃあまるっきり、おんなじではないか。死にゆくボクは、遺されたボクと同じように、縛られている。母さまに、あるいは、認めたくはないが。あの女、愛子に。

 こんなにも恨めしいなんて。


 ああ、こんなにも愛しいのだ。




END
2011.4.18
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