魅惑ルージュ
咲希の赤い唇が動くのをぼんやりと眺める。
ハッと我に返って慌てて咲希の唇の動きに集中するも、一歩遅かったようで咲希はすでに口を閉じており、苦笑を浮かべていた。
「ごめん、見てなかった」
平謝りする僕を一瞥し、仕方ないとでも言うように軽く首を振る。
そして先程よりゆっくりと唇を動かした。
『なんでもない。大丈夫?』
大丈夫だよ、と返しながら僕は少し切なくなる。
失声症という言葉をご存知だろうか。
ストレス等心因性の原因から声を発することが出来ない状態を指す言葉だ。
咲希は母子家庭の一人娘である。
幼い頃に両親は離婚し、咲希は母親に引き取られた。
母親は子育てと仕事の両立に必死だった。
典型的な板挟み状態が続き、ストレスは母親を確実に蝕んでいった。
そして遂に母親は、そのストレスを咲希に向けるようになる。
虐待こそなかったものの、母親は常に苛立ち、何かあるたびにヒステリックに咲希を怒鳴りつけた。
母親と二人暮らし。
幼い咲希に逃げ場はなかった。
そして9歳の夏に咲希は声を失った。
その後母親の仕事は安定し、優しい男の人と再婚した。
母親は本来の柔和な人に戻った。
しかし、咲希の声は出ないままだった。
ここまで深い事情を知っている僕は咲希の幼なじみだ。
生まれた病院の病室から始まり、家、部屋、クラスの席。
全て僕の隣には咲希がいた。
咲希と一緒にいることは好きだ。
声こそ出ないものの、元々の明るい性格も手伝って咲希はよく話した。
失声した咲希との8年の付き合いは伊達ではなく、僕は唯一咲希の唇の動きを読めるようになった。
『でさ、先生が"それは違います"って』
「全否定してんじゃん」
『正解はないって自分が言ったのにね』
二人でクスクスと笑う。
本当にその辺の女の子と変わりない。
咲希は同世代の中では可愛い方だと思う。
今でさえ密かな人気を誇っているのだ、声が出ればさぞモテることだろう。
「都倉さん」
咲希がぱっと顔を上げてニコッと笑った。
僕もつられて顔を上げる。
声を掛けたのはクラスメイトの佐藤さんだった。
「原田先生が呼んでるよ。職員室だって」
咲希はそれを聞いて訝しげに首を傾げた後、机の片隅のメモ帳にさらさらと何かを書き、それを佐藤さんに見せる。
『ありがとう』
僕以外の人には毎回このように筆談である。
佐藤さんはそれを見て、満足そうに去っていく。
『ちょっと行ってくるね』
「呼び出しかよ。何やったわけ?」
『何もしてないよ!』
「はいはい、行ってらっしゃい」
『行ってきます』
ぱたぱたと教室を出ていく咲希を見送って、僕はゆっくりと机に伏せた。
咲希と常に一緒にいるせいか、僕には友人と呼べる人がほとんどいない。
元々社交的な性格ではないが。
「ねえ、吉田くん」
呼びかけに目線だけちらりと見上げると、そこにいたのは先程伝言を伝えてくれた佐藤さんだった。
「何?」
「都倉さんのことなんだけど、」
「うん」
佐藤さんは少し躊躇ってから、僕に問うた。
「何であんな真っ赤なルージュ引いてるの?」
それは純粋な疑問だった。
またそれはクラスメイト全員の疑問でもあったらしい。
先程まであんなにうるさかったのに今は皆静かに僕の答えを待っている。
「……佐藤さんはどう思ってる?」
「私?…似合ってると思う。とっても素敵。…でも、先生達には評判悪いよね。さっきの原田先生の呼び出しも、多分それ」
それはクラスメイト全員の意見なのだろう。
佐藤さんの意見に口出しする人は誰もいない。
咲希はいつも深紅のルージュを引いている。
それは中学の頃、女の子の間で薄いピンクやオレンジのリップやグロスが流行ったときも変わらなかった。
その時のクラスメイトには評判が悪かったが、どうやら高校での評判は上々らしい。
「あれは僕のせいだから、責めないでやってな」
「責めないよ……ていうか、吉田くんのせい?」
中学に入ったばかりの頃、僕は急に目が悪くなった。
徐々に視界が霞んでいくことに恐怖を覚えたものだ。
その頃咲希はすでに僕との会話に筆談は使用しなくなっていたが、僕の視力は目の前に座る咲希の唇を読み取るのさえ困難なほど落ちてきていた。
しかし僕はメガネを意地でも作らなかったし、コンタクトもしなかった。
(メガネはダサいと思っていたし、コンタクトは痛そうだと思っていたからだ。)
その結果、咲希に何度も同じことを聞き返した。
そのうち咲希もおかしいと思いはじめたのか、ある日僕に尋ねてきた。
『どうしたの?』
「あー…最近目ぇ悪くなって」
『本当?』
「うん」
翌日、僕は心底驚いた。
咲希の唇がくっきりと見えるのだ。
ルージュの濃赤によって。
『これでよく見える?』
そういって、咲希は得意げに笑った。
最も日常生活にも支障をきたしてきたので、その三週間後にはコンタクトデビューしたのだが。
「そっか…じゃあ、何で都倉さんはまだルージュを引いてるのかな」
「さあ、」
本当は尋ねたことがあった。
咲希はこう答えた。
『願掛けみたいなものかな』
「願掛け?」
『啓太がもう私の唇が見えないなんてことがないように』
「コンタクトしてるからもう大丈夫だよ」
『でも、怖いから』
そういって悲しげに笑った咲希の頭を僕は思わず抱きしめた。
(ああああああダメだ思い出すとすごく恥ずかしい)
カラリと教室の扉が音を立てて開き、咲希が帰ってきた。
にやにやと笑っている。
嫌な汗がつ、と背中を伝った。
三日月形の赤い唇がゆっくりと動いて、
『啓太ったらとぼけちゃって』
「……どこから聞いてた?」
『佐藤さんはどう思ってる?あたりから』
つまり先程の会話は全て聞かれていたわけだ。
緩く弧を描いた唇が視界に映り、急に気恥ずかしくなる。
(ああああああもういい、恥ずかしい、堪えられない。吉田啓太、現実逃避します)
茫然とするクラスメイトと目の前で相変わらずにやにやと笑っている咲希を無視して、現実から離脱するべく僕は机に突っ伏した。
(十秒後にはチャイムによって現実に引き戻されるとも知らずに!)
ドリーマンの法則様に提出します!
無駄に長くてめんどくさいものが出来上がったよ!(・ω・´)
(失声症については付け焼き刃な知識で書いているので、「違うよー」っていうところがあったら是非教えてくださいorz)
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