息絶えた魚

何か変なにおいがする。今まで嗅いだことのないタイプのものだけど、唯一分かるのはそれが悪臭であることだ。私に向けられたものではないけれど、もっと根本的な悪意を感じる。気になってにおいの元へと向かえば、辿り着いた先にあったのは一枚のポスターだった。聞いたこともないバンドのライブを告知する内容のもの。バンド名を知らないのはただ興味がないからかもしれない。だから私にとってこれは紙切れに等しいものだ。
目線より少し高い位置にあるそれをじっと眺める。変なにおいはこれからしているのは間違いないが、それがなぜかは分からないままだ。
昔からものやひとに様々なにおいを感じる体質ではあった。だけどこの感覚をうまく説明できずに不審がられるだけで、役に立ったことはない。その上どうしてそれを感じるのか、この年になっても理解できないでいる。分かることはただそれが良いものか悪いものかだけ。例えばさっきすれ違ったお姉さんは香水の甘いにおいに混じってこのポスターと同じような変なにおいがした。
何が原因なのだろう。吐き捨てられたガムがついているとか、そういうわけでもなさそうだし。

「このライブ、行きてぇのか?」

集中しているところに突然声をかけられて肩がびくっと跳ね上がった。声が聞こえた方を見やれば、端正な顔立ちの男性が立っていた。体にぴったりと張り付いた黒いシャツがその下の鍛え上げられたからだを際立たせている。不思議なことに、このひとからはどんなにおいもしなかった。無臭の人間なんて初めて出会った。そんなひとが存在することに戸惑いを隠せない。

「さっきからずっと見てただろ、興味あんのかと思ってな」

黙ったままでいれば、男性はなおも話しかけてくる。早くなった鼓動を隠すように、私はあえて不遜な態度をとった。

「別に。ただ……」
「ただ?」
「……変なにおいがするの。嫌なにおい。何でかは分からないけど」

早口にまくし立てると、途端男性から返事が来なくなった。ハッと我に帰る。それはそうだ、こんな謎発言に何と返せばいいか困っているのだろう。忘れてくださいという私の声は彼の笑い声に掻き消された。心底おかしそうに口を開けて笑う彼に呆気に取られていると、彼は瞳にうっすらと浮かんだ雫を指先で拭いながら「オマエ面白いこと言うな」と楽しそうな笑みを見せる。
私のこの感覚を『面白い』と言ってのけたのは彼が初めてだった。今まで誰も、それこそ親ですら受け止めてくれなかったのに。その事実に少しだけ泣きそうになった。

「来いよ。オマエが感じたにおいの正体……俺が教えてやる」

そう言って彼は手を差し伸べてきた。
初対面の男の人の意味深な誘い。ここははっきりと断ってさっさとその場を立ち去るべきなのに。私に向けられたその手を取ってしまったのは、きっと彼のことをもっと知りたいと思ってしまったからだ。結果的に、長年感じてきたにおいの正体も判明した。それどころか呪霊と言う気持ち悪い生き物も見えるようになってしまったし、私がのこのこついていった彼こそが世界で一番危険な存在であることが分かった。視野が広がって、曇っていた道が晴れた気がしたのだ。だから彼の手を取ったことは後悔していない、はずだった。


「私、貴方と出会ったこと、心底後悔してるわ」

十数年前に死んだと思っていた旧知の男が生き返っていて、たまたま居合わせた街で再び出くわした。そんな状況、後にも先にも今日限りだと思う。そうでなければ困ってしまう、こんな経験二度もしたくない。
彼は出会い頭に、ある場所に連れて行けと言った。奇しくもそこは、彼と初めて出会った場所だった。そのことに気が付いているのかいないのか、彼はニヤリと笑って「あそこには強いヤツがいそうだ」とのたまった。その目は深い闇を湛えている。
きっともう、彼は私の知る彼ではないのだ。そのことに夜闇よりも暗い悲しみを覚える。
生き返るということは、もう一度死ぬということだ。私が愛した姿で、また息絶えて行く彼を見るくらいなら、初めから出会わなければよかったとすら思う。だからあの日彼の手を取ったことを後悔している。あの時は彼の死を十数年経っても引きずることになるだなんて、それぐらい心を傾けてしまうだなんて、思いもしなかったから。
私の気持ちを慮ることもなく、彼は「名前」とかつての呼び方をして、自分の目的を果たそうと急かしてくる。

「さっさと連れてけよ」
「術式を使えと言いたいの?あれはそんな簡単なものじゃないってあれほど……」
「分かってるよ」

ため息を零しながら説明をすると途中で遮られた。

「行ったことある場所にしか使えねぇってんだろ。なら問題ねぇな、俺たちが初めて会った時に行ってるんだから」

え、と意味を成さない母音が口から漏れた。覚えていたの。私が知る、あの頃の彼ではないくせに。見た目が同じであるだけのがらんどうなのに。

「ほら。手、貸せよ」

そうして、甚爾さんは出会った時と同じように手を差し出してくる。あの日の光景が、感情がフラッシュバックして泣きそうになった。ぎゅうっと瞼を閉じて堪える。今の彼は彼の面を被ったお人形、そう言い聞かせた。
求めるものは強者との戦闘、抱えるものは渇望。分かっている。
彼にお願いされたら、それを叶える選択肢しかないのだ。例え彼が彼でなくとも。

「……分かった」

手を取ってありったけの力を込めて握りしめる。ちっとも痛そうにしないことに腹が立って、闘いを待ち望んでウズウズとしている彼の首へ腕を回す。

ねぇ、もう死なないでね。
目の前の彼にしがみついて願いをかけるけれど、死者が返事をくれるはずがなかった。
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