あなたはわたしのずるいひと

私が淹れたコーヒーを飲みながら、彼がぽつりと零した。

「俺のことなんて、さっさと忘れちまえ」

コーヒーを飲む手を止めて、男を横目で見る。その横顔は何も語らない。彼の意図も、思いも、何一つとして。
私に言わせれば、こんな男を記憶から消すことなど、それこそ死んだ後でも無理だと思う。そもそも、人の心にズカズカ踏み込んできて荒らすだけ荒らしておいて忘れろだなんて、笑い話にもなりやしない。自分勝手なこの人らしい言い分だなと感心すら覚えた。

「忘れられるわけないでしょ、バカ」

そう言ってやれば、この男はバカはオマエだと笑うのだ。
決めた。その顔、絶対に忘れてなんかやらない。思い通りになってたまるかってんだ。



10月31日の渋谷は混沌に包まれている。それを静めるため、私たち術師が奔走することとなった。

鳥の式神にしがみつき、飛翔させる。建物にぶつからないギリギリを旋回させながら下を見やった。先ほどすれ違った七海から、この辺りに猪野たちがいるから合流してほしいと頼まれたのだ。上空から探しているが未だに姿は見えない。三人とも強いことは知っている、だがどうにも心配だから早く合流したい。
そうしてあるタワーの近くを通った時、猪野の呪力を強く感じた。近くに伏黒の呪力も。下を見やると、二人の姿はないが、代わりに高専関係者として登録されていない呪力を持った、男女の二人組がいた。大方五条の封印に乗じてやって来た呪詛師だろう。五条にビビって動きもできないようなやつらだ、大したことはない。そのまま一生隠居していれば痛い目を見なくて済んだのになと思いながらそこへ近づいて行く。

二人組は何かを話していたかと思えば、男の方が女を殴り飛ばした。当たった箇所から女の肉体が爆ぜる。女はばたりと倒れたまま身じろぎ一つしなかった。
男の方から呪力は一切感じなかったから、純粋な力のみ、しかもたったの一撃でここまでのダメージを負わせたことになる。それでこの威力なら、単純な膂力では東堂や虎杖に並ぶかもしれない。
仲間割れをしたのなら好都合、この流れに乗じて拘束するに限る。
式神から飛び降り、警戒態勢を取って男に近付いた。

「おい、ちょっと面貸してもらおうか」

私の声に、男がゆるりと振り返った。見せつけられた顔に驚きを隠せなかったのは仕方がないと思う。

「甚爾、さん……?」

そこにいたのは死んだはずの男だった。関わっていたのはもう十年以上も前であるのに、私の記憶に色濃く残って消えてくれない男。忘れろと望むから、あえて忘れてやらないと誓った相手だ。まさかここで再会することになるなんて。
電撃が走ったように動けなくなる私を、彼はじっと見つめていた。数秒と経たず、その姿がぼやけて映るようになる。瞬きをすれば、彼が目と鼻の先まで近付いて来ていた。

「ほら、面貸してやったぞ。何とか言えよ」

端正な顔が、エメラルドグリーンの瞳が、私を貫く。まじまじとその姿を見ればよく分かる。見慣れない服を着ているが、あの禪院甚爾に間違いない。そう思ったら胸がいっぱいになって、目の前の男に抱きついた。

「ねぇ、どうして……!」

涙がボロボロ零れ落ちて、紡がれる声は自然とゆらゆら揺れてしまう。震える体ごと抱き締められてまた涙が頬を伝った。

死んだはずでしょとか、生きてたなら今までどこにいたのとか、聴きたいことは山ほどある。だがどれも上手く言葉にできなかった。それでもいい。今はこの人がいる事実を噛み締めていたいと、そう思ったのだ。
子どもをあやすように私の背中を叩く男が可笑しそうに笑った。

「俺のことはさっさと忘れろって言っただろ」

甚爾さんはあの日と同じことを言う。もちろん私も、返す言葉はあの日と同じだ。

「忘れられるわけないでしょ、バカ」





お題拝借 言祝様
- 29 -

[*前へ] [#次へ]

戻る
リゼ